短編集69(過去作品)
と思わず驚嘆の声を上げたが、立体感の素晴らしさには目を見張るものがあった。
モノクロで描かれているのが、余計に立体感を感じさせた。想像力を豊かにさせてくれるからだ。
「私は、一人になると、時々無性に絵を描きたくなるの。自己満足の絵なんだけど、自己満足だからこそ、続けていられたのかも知れないわ」
なろほど、それも一理ある。確かに自己満足は人がいうほど悪いものではない。私なら、
「自分で満足できないものを人に勧められるわけはないじゃないか」
と言いたくなる。どんな商品でも、開発者はまず自分で確認してみるはずである。第一関門はまず自分なのだ。
聖子さんの絵は素人の私が見ても綺麗だ。性格が表れているのか、細かい線にも丁寧さが伺える、男の私なら全体から絞っていくように考えるだろうと思うところを、彼女は細部から広げていくのだ。
本当なら私もゼロから初めてコツコツ作り上げるのが好きな方である。だが、こと絵画に関しては、細部だけを見ていたのでは全体が見渡せない。全体から見渡すのであれば、細部に絞り込むのは、細部から広げていくよりもさほどの苦労はなさそうに思える。
聖子さんが絵を好きなことを知ったのは、何度目かのデートで遊園地に出かけた時だった。
「子供っぽいと思われるかも知れないけど、この年になると、デートでしか来れないでしょう?」
と言って、はにかんで見せた。その気持ちは私にも分かる。生時代に彼女ができたら遊園地に行きたいという思いがありながら、結局遊園地に誘う前に相手から絶縁状を突きつけられる。
さすがに最初のデートで遊園地は抵抗がある。絶叫マシーンなどが好きな相手かどうか分からないと、一緒に行っても楽しくない場合があるからだ。ある程度知ってしまうと、絶叫マシーンが嫌いな女性でも、遊園地でのデートというシチュエーションに満足してくれるのだ。夏は開園時間が延長されたり、花火が打ちあがったりで、結構大人も楽しめる。気が付けば周りはカップルでいっぱいだ。
初めて行ったのはチューリップの綺麗な時期だった。
私は子供の頃からチューリップには思い出があった。学校にあったチューリップ畑を夜中に荒らされたことがあって、一時期、その犯人として疑われたことがあったのだ。まだ苛めなど受ける前のことで、私も冒険心もあったし、疑われたことが悔しくもあった。
ある日誰もいなくなった学校で張り込んだことがあった。一日だけだったが、自分の意地というよりも疑ったやつらに目に物言わせたいという気持ちだった。
子供だてらに学校とはいえ、夜に外出できるなど、今からでは考えられない。親も私を信頼しているというよりも、いないことすら知らなかったくらいだ。
さすがに一人では怖いので、冒険心豊かな友達が一緒に行ってくれることになった。
「俺も誰か一緒に行ってくれるやつがいないか探してたのさ。怖いわけじゃないんだ。一人だと用務員とかに見つかった時に厄介だ」
言い訳にしか聞こえなかった。人が増えれば増えるほど見つかる可能性は高いというのに。
だが、彼は正直怖がりではない。震えているのを見たことがないし、実際に風で何かが倒れた時に静寂の中で起こった雷鳴のような音に、さほどびくついてはいなかった。
「心臓が飛び出すかと思ったのに、よく怖くないな」
「これくらいは予期できたさ。肝試しで墓場に行くのとどっちが怖いかな?」
肝試しなど考えたこともない。夜中に墓場に行くということがどういうことなのか、私には意地悪をされているとしか思えない。
それでも耐えているのだ。意地悪するのだって人間、きっと脅かす方も怖いはずだ、何しろ墓場で相手が怖がるような風体をして、怖がるように仕向けるのだ。何よりも待っている方が恐怖を煽る。怖がりだから余計にシチュエーションにこだわるのだ。自分で決めたシチュエーションに怖がっていてどうするというのだ。
チューリップを荒らしていたのは実は、一緒に行った友達だった。彼が一緒だと荒らすやつは現れない。
「俺様がいるから現れないのさ」
と言って、私に逞しさをアピールしていたが、まさか自作自演だったとは思いもしなかった。誰かに逞しさをアピールするのと、チューリップの花壇があることで、休み時間に好きな野球ができないという勝手な理由で、彼はチューリップの荒らしをやってのけたのだ。
私には彼の自作自演が途中から分かっていた。誰かに私は彼に恨まれたかも知れない。嫌われたくないという思いと、
――もし俺が彼の立場だったら、同じことをしたかも知れないな――
という思いがあったからである。同じ思いを持ったやつを裏切るわけにはいかない。それは自分の心にウソをつくことであり、自分を裏切ることにもなるからである。
自分の立場を考えるよりも、自分が相手の立場だったらという考えができたことが、彼を裏切ることができなかった一番の理由のように思う。それだけ友達を大切にしたいという思いもあったのだろう。
それなのに。数年後には苛めに加担することになる。そんな自分に感じた嫌悪感も半端ではなかった。
さすがに苛めっ子の立場に立つことだけは私にはできなかった。それなのに、なぜ苛められっ子の立場になることができたのか不思議だった。
――俺ってMなんじゃないか?
SMというのがどういうものかを知った時、私は自分がMだと思ったものだ。なぜかと聞かれると、
「苛めるよりも苛められる方が気が楽だからな」
と答えるに違いない。
確かに苛める方が良心が痛むというか、自分のプライドが許さない。だが、もう一人の自分は、
「プライドという意味なら、苛められる人間にプライドを口にできるのか?」
と言っている。
苛めっ子から、苛めを命じられた時、自分にプライドがないのかを自問自答したことがあった。その時に私は迷いを打ち消すかのように、その思いを一刀両断にしたのだった。そのおかげで苛めをさせられることにプライドを捨てられたのだった。
そんなことが言い訳になるわけではないが、自分のプライドが何なのかを、考えないようになったのは、その頃からだった。
――俺はSなんだ――
と思うようになったのは、焦れったいやつに対して苛立ちがこみ上げてくるようになり、それは自分の中でとどまるところを知らなくなってからの頃だった。
自分がSだと思い始めてから、苛めっ子に気持ちが分かるようになってきた。苛めっ子の気持ちが分かるようになったから、自分がSだと感じるようになったのかも知れない。私は最近、胃に痛みを感じるようになった。自分をSだと思うようになった頃とほぼ同じ時期だ。
胃が痛いなど今までに感じたことはなかった。
「最近、胃が痛いんだよな」
と言っている人がいたが、どのような心境なのか分からないでいた。
時の流れに乗れなくなってきたのが一番の理由かも知れない、最近、仕事では追いつめられるようなことが多く、夢にまで仕事のことが出てくるのだ。なるべく余計なことは考えないでおこうという意識が強くなるのだが、何が余計なことなのか自分でも分からなくなってきていた。
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次