短編集69(過去作品)
歴史にはたくさんのターニングポイントがあるが、その主人公は皆それぞれ、本能というものを中心に物事を考えていたような気がしてならない。勝手な発想ではあるが、興味深いことではないだろうか。
皆限りない何かを持っていたのだと思う。それでなければ、歴史に名を残すだけの事件を起こすこともできないからだ。
聖子さんの身体を抱いていると、生まれる前の遠い記憶を思い起させることで、信長をイメージしてしまったのだろうか。信長に対しては歴史上さまざまは伝説があるが、彼が「うつけ」ではなかったことだけは、事実のようだった。
私の中にも「うつけ」に似たところがある。まわりに対してわざと「できない」というイメージを植え付けてしまうところがあった。下手にできることを示してしまうと、それ以上を求められる。確かに求められたことをこなしていくことで自分のスキルが上がり、会社での評価も上がるのだが、うまく行く時はいい、しかし乗り遅れてしまったらと思うと怖い気持ちが強く、努力が報われないことの苦しさに、果たして耐えられるかどうかが一番の不安であった。
そのため、自分は「うつけ」であるというイメージをまわりに植え付けることで、必要以上に期待させないようにしている。
ただ、そのことを分かっている人もいるかも知れない。私の考え方は、
「伏線を引いている」
と言えるのではないだろうか。伏線を引くのは自己防衛のために必要なことだが、私のやり方は卑怯な部類に入るのではないかという思いが強く、自己嫌悪の原因となりかねない。伏線とはまわりを巻き込むように引くものと、ただ自分を守りたいだけのために引くものがあるが、自分を守りたいだけに引くものというのは、どうしてもまわりを欺くものであってしかるべきであった。
聖子さんの素振りには、伏線は考えられない。もしあるとすれば、相手のことを考えて、相手を悦ばせるような「伏線」であろう。
――そうあってほしい――
と思うのは、身体を重ねて聖子さんの胸の中に吸い込まれていきそうな感覚に襲われたからだ。決して大きくない胸であるが、聖子さんそのものに思えるのは慎ましくも暖かく、相手を包み込んであげたいという包容力が気持ちに現れているところであった。
子供の頃からさらに遡り、生まれる前の母親の胎内を思い出しているのかも知れない。羊水に浸かっていたというのは話でしか聞いたことがないが、時々、暖かい水の中に抱かれているような錯覚を感じることがあった。錯覚ではなく、遠い記憶の中に残っているものが醸し出されてくるものだとすれば、どれだけのものが自分の記憶の奥に封印されているのか、思い描いてみたくなってくる。
「人間、生まれてくる時は皆水に浸かっていたんだから、かなづちというのはおかしいよね」
と、言っていた人がいた。「かなづち」というのは、泳げない人のことで、生まれた時は羊水に浸かっていたのだから、水が怖いというのはおかしいという発想である。
私も実は子供の頃泳げなかった。泳げるようになったきっかけは、小学三年生の頃に、友達から頭を押さえつけられるようにして水の中で溺れさせようとされたことがあったことだった。
本当であれば、いたずらでは済まされないくらいのひどい仕打ちであるが、そのおかげで私は水が怖くなくなった。水に顔を浸けても、息継ぎがうまくいくようになったのだ。
――呼吸法の問題だったのかな?
技術的にはそうだろうが、精神的なものがもっと大きかったに違いない。精神的なものも一つが解決すれば、相乗効果で、それ以外に自信のなかったことまでうまくいくようになった。それが勉強だった。
勉強が嫌いだったわけではない。なぜ勉強をしなければいけないかということが分からなかったのだ。納得のいかないことをいくらやらなければいけないことだと言われても、できるはずがないというのが私の考えだった。
勉強しなければいけないという定義など見つかるわけはなかった。何かきっかけがあればよかったのだ。算数を考えていて、数字の楽しさに気付いたことも一つのきっかけだった。普段であればなかなか気付かないきっかけに気付いたのも、水泳が得意になってからのことだった。一つのことが解決すれば、歯車は自然と回っていくものなのかも知れないと感じたのは、その時からだった。
――あまり深く考えないようにしよう――
というのが私のポリシーの一つとなった。
ポリシーというのはいくつあっても構わない気がする。一つでないといけないというわけではないのだろう。
聖子さんの羊水の中で私は、しばしのんびりとした気分になった。ただお互いに抱き合っているだけでそれだけで過ぎていく時間、「贅沢な時間」を過ごしていることに至福の喜びを感じていた。
「乾さんは、幸せって何だと思います?」
「また、思い切り漠然とした質問ですね」
「ええ、私は幸せって求めていくよりも与えられるものじゃないかって思うようにしているんですよ」
のんびりしているように見える聖子さんらしい考え方である。
「僕もそんな風に考えたことがありますよ」
少し違うが、考えたことも事実だった。
「私もいつも考えているわけじゃないんですけど、そう思うと何でもできそうな気がするんですよね」
「そこまで大げさに考えたことはないんだけど、ただ、与えられることを素直に受け止めようと思うと意外と与えられるものだったりするんですよ。そんな時に、一緒に求めていく気持ちも確かめることができる。逆に求めている時に、ふと立ち止まると、まわりから与えてくれそうな人が見えてくることがある。そんな時にも自分に対して、素直な気持ちになれる気がするんだよ。そんな時って、本当に気持ちいいって思わない?」
そういって、聖子さんの敏感な部分に触れた。
「あん、意地悪」
真面目な話をしているのに、私の中で悪戯心が浮かんできた。
「あ、今お腹の子が蹴った」
と、母親がそれだけで幸せな気分になる時のような感じなのではないかと思っていた。
静かに流れていた空気が一変、お互いの欲望が貪り合う空気に包まれた。濃い空気は甘い吐息を交え、さらに興奮を煽る。私にとって今までにない快感が襲ってくるのを今か今かと待ちわびながら、聖子さんの表情に、自分の中で余裕すら感じていた。
――ほとんど経験がないのに、どこからこんな自信が湧いてくるんだ?
と思えるほどで、ひょっとすると湧いて出たものではなく、相手から与えられたものではないかとも感じた。
――いや、これも俺の中にあるSの部分だろうか?
悪戯心が芽生えたのもそのせいかも知れない。悪戯をすることで相手の反応を楽しみたい。私の想像通りであれば、これほど嬉しいことはない。きっとすべてが私の想像通りに事が運ぶとするならば、すべてが私の自分となることだろう。それは他の女性に対してではない。あくまでも聖子さんただ一人を相手にしている時だけで十分なのだ。
――どうせ他の女性のことなんて思い浮かばないし――
今までにこんな感覚になったことなど一度もなかったのだ。
それにしても与えられる幸せって何だろう?
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次