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短編集69(過去作品)

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 その日私が友達と話をして遅くなったのは、元々早番だったので、帰ろうと思えばもっと早く帰れた。友達の悩み相談だったのだが、ちょうど早番の私が引っかかったというわけだ。その日遅くなったのはそういう意味では偶然である。もしその時声を掛けられなければ、その女性を気にすることもなかったからだ。
 彼女が私と同じコーポに住んでいる人であると知ったのは、次の日だった。たまたまごみを出す時間が一緒になったのだが、その日の帰り、私はまた彼女を見かけ、その顔を確認した。その日はいつもの九時だったのだが、いつもの時間で彼女を見ることが今までにはなかったはずだ。
 その日顔を見た時、
――朝、見た顔だ――
 とすぐに思い出せなかったのは、彼女の表情が朝とはまったく違ったからだった。朝の表情は無表情で落ち着いていたのに、夜は薄暗いとはいえ、恐怖に満ちたその顔はゾッとするほど怖かった。
 その日の夜、彼女が私の前を歩いているのに気が付いた。これは偶然ではなく、彼女が昨日現れた自分に合わせて自分が行動しただけだった。合わせたといっても、途中でコーヒーを飲む時間で調整したので、合わせたという意識はなかった。
 やはりどこかビクビクしている。小さな背中がさらに小さく見えたが、それは彼女の影が前の壁に大きく映っているのが見えたからだ。
「カッカッ」
 と靴の乾いた音が響いている。よく見ると彼女の歩みと靴の音が合っていないように思えてきた。
「あの音は」
 まわりに響いてどこからの音なのか分からない。それなのに、彼女は交差点の左側に意識が向いていた。誰かがそこにいるのか私は飛び出して見てみたい衝動に駆られたが、飛び出してはいなかった。もしその時に私が飛び出していけば、何か状況が変わったかも知れないと思えた。それは彼女に対してではなく、自分に対してのことだった。
 飛び出すタイミングを逃してしまった私は、そのまま様子をうかがっているしかなかった。彼女が怯えているのを見ていると、萎縮している姿が次第に自分の小学生の頃を思い出させるからだ。
 怯えを感じていると、見える範囲が狭くなってくる。先のことを考えていたとしても、その場をどう乗り切れるかだけが問題となり、それ以外はすべてを無に帰すような感覚になってくる。特にそれを感じたのは、小学生の頃に好きになった女の子が私に対して気持ち悪いという感覚を持っていることに気付いた時だった。好きになってほしいと思っていた気持ちが、次第に気持ち悪いなんて思わないでほしいという気持ちに変わり、さらに彼女には相手が誰であっても気持ち悪いなんて感覚を持たないようにしてほしいという思いが強くなるのだった。
 実は私が苛めに目覚めたのは、彼女に対してが初めてだったのかも知れない。理由は分からないが、どこか彼女に対して苛立ちがあった。苛めてみたいというよからぬ思いが頭を巡る。
 しかし苛めというのは自分がされるよりも自分がする方が、エネルギーを使う。本当はこんなことしたくないのに、しないと矛先が自分に向いてくるのだ。苛める側の大将は、まわりの様子を眺めながら顎で使えばいいのだから気が楽だと思っていたが、実際にまわりを使うものこそが神経を使うのだから大変だ。
 ただ傍観しているだけだった私は、いじめっ子の中にいたやつに目をつけられた。隅っこにいるというのは目立たないようで、一番目立ってしまうのかも知れない。端っこからのまなざしが眩しかったのだろう。苛められているやつの視線が私に向いていた。
「そんな目で見るなよ」
 という視線が私の表情を情けないものにした。苛められているやつの矛先がこちらに向いてくるのだ。
――俺が一体何したっていうんだよ――
 と言わんばかりの顔はさらに私を追いつめる。苛めている方も視線が自分の方に向いていないことに気が付くと、視線はその先にいる私に向けられる、苛めている側、苛められている側、両方から見られるのは耐えられたものではないい。それぞれに違った視線からこちらを見ている。
 苛められている方が、哀願の表情であればまた違った意味合いがあるのだが、憎しみを込めた目で見るものだから、視線を痛く感じるのも無理もない。
 苛めている側は、なぜ私を苛めている相手が見つめているのか分からないようだった。視線を向けると私がいて情けない表情をしている。てっきり次のターゲットは私だと思ったくらいだ。
 苛められる側からすれば、私を見つけることで苛めの矛先を他に変えられればいいと思っているに違いない。たぶん、それだけできれば満足するのだろう。だが、苛める側からすれば、苛めの対象が拡大するだけだ。相手が誰でもいいのは双方同じなのだろうが、苛められる側からの方が、誰でもよかったのかも知れない。
 誰でもいいというのは怖いもので、下手をすると、また自分に災いが戻ってくることを考えないのだろうか。相手も選ばないと、矛先が回りまわってまた自分のところに戻ってこないとも限らないからだ。
 苛める側こそ誰でもよさそうなのだが、彼らは彼らなりに考えている。
「明日は我が身」
 だと思っているとすれば、相当にしたたかな連中だ、彼らは決して頭は悪くない。苛めるにしても彼らなりの理屈があって苛めているに違いない。彼らを擁護するわけではないが、私がそんな目で彼らを見てしまったことを後悔するくらいの屈辱を、それから少しの間味わうことになるのだった。
 彼らは、苛めの実行犯に私を選んだ。いわゆる鉄砲玉のような役目だ、特に私をジロリと睨んだ苛められっこが私のターゲットだ。
 睨まれたこともあり、私はそれほど嫌ではなかった。むしろ彼を苛めることで、なぜあの時私だったのかを知りたくなってきた。自分が苛められる側になることはあるかも知れないと思ったが、苛める側になるなど、思ったこともなかった。
 苛めているうちに彼の気持ちが少しずつ分かってきた。同じような気持ちを持っているのかも知れない。だからこそ、彼が見つめた相手は私だったのだ、
「同じタイプのお前は何もないのに、何で俺だけこんな目に遭うんだ?」
 と言いたかったに違いない。
 その時は当事者でありながら部外者でもあった、苛められる側からすれば当事者である。傍観者は決して部外者ではありえないのだ。
 今私は当事者になってしまった。当事者になることで、苛められている連中からすれば、
「これでお前も当事者だ」
 とほくそえんでいることだろう。それに比べ、本心から苛めたいわけでもないのに、やらされている惨めさが襲ってくる私はそれまでの彼らと立場が逆転してしまったかのようだ。
 だが、私のプライドは歪んでいるかも知れない、どうせ苛める羽目になるのなら、楽しみながら苛めたいと思うようになった。
「決してやらされているわけじゃないんだ」
 という気持ちが私を歪んだ気持ちに誘うのだった、
 苛めっ子側にそこまでの思惑があったとすれば、すごいものだ。それまで苛めっ子は頭がいいと思っていた発想が証明されたような感じである。
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次