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異次元の辻褄合わせ

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 という天体学者が創造したという星のお話だった。
 ただ、あいりがその時に感じた暗黒星というものは、光を発することも反射することもないだけではなく、確か気配も相手に悟らせないものだったような気がした。だが、この時に感じたキーワードは、気配だけはやたらと強いものだった。
 気配だけはやたらと強いということは、暗黒星の存在意義を根本から打ち消しているものであることから、
「姿かたちは似ているが、その趣旨、つまりは存在意義に関することではまったく違ったものが、世の中には相対的に存在しているのではないか」
 という発想が頭に浮かんできた。
 まるで鏡に写った被写体が、左右対称であるかのような感覚。左右対称でなければまったく同じものなのに、左右対称であるがゆえに、まったく違った世界に存在しているということを言わずもがなに証明しているもの。そんな存在を意識したのだった。
 左右対称のものを見ている時に鏡の発想になるのは、あいりだけではないだろうが、鏡という発想に、左右対称という発想を織り交ぜた時、無限という発想を思い浮かべる人がどれだけいるだろうか?
 あいりは、鏡を自分の前と後ろに置いた時、前に写っている自分が、反対側の鏡にも移っていき、それが、どんどん小さくなっていく中で、無限に続いているという思いを抱くのだ。
 その時写っている被写体は、
「どこまで行っても、限りなくゼロに近い」
 という発想を思い浮かべる。
 ゼロにはならないのだが、無限に続くという発想をしたのであれば、ゼロにならないということは、どこか矛盾を孕んでいるように感じるのだ。

この矛盾は、別の意味で「暗黒星」の存在にもありえるものであり、鏡に写った左右対称という条件にも矛盾を与えるものではないかと思えてきた。
 あいりは、鏡に写った自分が本当に左右対称なのかと、ずっと鏡を凝視したことがあった。もちろん、そんなことは無駄な労力だとは思いながら、たった一度だけの無駄な時間を費やすことで、自己満足に浸るということをしたことがあった。だが、その無駄を無駄だと思っていては先には進まない。何か無駄以外のものが必ずあると思うことで、先に進めるのだ。それが何であるかということは大したことではない。要するに感じることが大切なのだ。
 あいりは鏡を見ていて、
――これのどこに省略できる何かがあるというのか?
 と考えた。
 その時あいりがふっと感じたこととして、
――そういえば最近、鏡を見ていることが多くなったような気がする――
 今までは女の子でありながら、そんなに頻繁に鏡を見ることはなかった。
 まわりからは、
「女の子なんだから、毎日でも自分の姿を鏡に写して確認しないといけないわよ」
 と言われていた。
 一体何を確認しないといけないのか、あいりには分からなかった。分からないのだから聞けばいいのだろうが、それも恥ずかしい。
「何をいまさら」
 と言われるのが怖かったのだ。
 しかし、今のあいりには、まわりから、
「何をいまさら」
 と聞かれても、別に気にすることはない。
 逆に、
「どうして毎日自分を確認しないといけないの?」
 と聞かれれば、堂々とこちらから逆に質問ができる気がした。
 ただ、自分からはその話題に触れようとは思わない。話題に触れること自体が気持ち悪いことなのだ。
 そう思っていたので、敢えて自分から鏡を見ることはしなかった。別に意地を張っているわけではないので、いつの間にか鏡を見るようになっている自分にいまさらビックリすることはないのだが、気が付いた自分がどう反応していいのか戸惑っていることにビックリしていたのだ。
 あいりが、自分の姿を鏡で見て、何かを省略したいと思ったことには。さほどビックリしたわけではない。
 あくまでも、
「そういえば」
 という程度のことなのだ。
 別に意識しなければ、そのままやり過ごしていただけのこと。意識することに何ら意味はなさないように思えたのだ。
 あいりは、省略することに、自分の勇気が必要だということに気が付いた。
「きっかけと勇気。きっかけとは人から与えられるが自分の中に入ってからは、辻褄合わせに入り込むものではないか」
 と感じたのを思い出した。
 何かを感じるのはきっかけ、そしてきっかけは辻褄合わせに繋がっていると考えたが、勇気はその先にあるものではないかと思っている。
 辻褄合わせをするということは、自分の中で納得のいっていなかったことを納得させること。言葉としては。あまりいいイメージではない辻褄合わせだが、絶えず自分の中で辻褄合わせというのは、意識の生でフル描いてしているものではないだろうか。
――大胆な省略は辻褄合わせのための必須のアイテムではないか?
 もし、自分が絵を描くことにならなければ、こんな発想は浮かんでこなかったかも知れない。
 まだ絵を描こうと思っていなかった時、偶然見たテレビ番組での作家のインタビューがどれほどあいりにインパクトを与えたのかということを示している。
 暗黒星という言葉も、頭の中で絶えず反芻しているものではないだろうか。
「存在しているのに、その意識をまわりに一切与えない。気配を消すなどという生易しいものではなく、存在自体を意識させないということが、存在を打ち消していることになるのだ」
 そう思うと、大胆な省略という発想は気配を消すだけではなく、その先にある存在自体も消してしまおうという発想なのかも知れない。
 普通であれば、気配を消すことはできても、存在を消すことはできない。絵だって、目の前のものを忠実に描くという発想から、大胆に抹消するという発想を画家がしてもいいのだろうか?
 つまりは、そこには勇気が必要になってくる。
 絵を描くということについて、あいりはいろいろと考えていた。
「絵というのは芸術の一環であり、芸術とは何もないところから新しいものを生み出すことだ」
 と思っている。
 しかし、芸術というものは、絵だけではない。文学も音楽も彫刻も、それぞれに芸術と言えるものではないだろうか。
 確かに何もないところから新しいものを生み出すのが芸術の醍醐味だと言えるだろう。それ以外にも芸術としては、
「作られたものを表現する」
 という要素尾含んでいるのではないだろうか。
 例えば、音楽などがそうである。
 作曲家によって作られた作品を、オーケストラがコンサートで演奏することで、芸術を伝えている。つまりは、
「表現することも芸術の一つ」
 と言えるのではないだろうか。
 映画にしてもそうだ。
 原作者がいて、その原作に対して映像作品にするという意思を持って、映画製作会社でプロジェクトが作られ、そこで脚本家がドラマにするためのシナリオを作成し、配役を決め、音楽を決め、さらに映画監督によって映像化するための撮影が行われ、そのすべてを組み合わせて一つの映画作品が出来上がるのだ。
 ここには、単独でも十分な芸術作品がある。それを表現という目的を元に集結させたことで、さらに大きな作品として生まれることになる。芸術の大小を単純に比較できるものではないのだろうが、少なくとも、
「芸術は表現の形である」
 とおいう定義に当て嵌るものなのではないだろうか。
作品名:異次元の辻褄合わせ 作家名:森本晃次