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異次元の辻褄合わせ

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 あいりには、そんな大きなプロジェクトの発想はあっても、自分と結びつけて考えることはない。むしろ、おおきな作品を作るよりも、小さな作品をコツコツと罪化させる方が自分らしいと思うし、自分にとって本当に好きなことなのだと思うようになっていた。
「これこそ、芸術家と呼ばれるにふさわしいのではないか」
 と思うようになったのは。自分が芸術を目指すのは、あくまでも、
「新しいものを作り出すこと」
 を芸術だと思っていることを再認識できたからであろう。
 芸術という広義の発想には果てしなさを感じる。否定するわけではないが、あいりにとっての芸術はあくまsで、
「新しいものw作り出すこと」
 なのだ。
 そう思っていると、
「大胆な省略」
 という意味も少し分かってきたような気がした。
 新しいものを作り出すことに集中することで、自分が闇雲になっていることに気付かないでいた。自分の中で意識はしていないつもりだったが、
「質よりも量」
 だという発想が無意識にあったのかも知れない。
 本来芸術家というのは、
「量よりも質」
 でなければいけないと思っていた。
 その発想は今でも変わっていないが、無意識にその思いを否定していた自分に、あいりは気付き始めていた。
 確かに駄作をたくさん作り上げることは芸術を志すものとしては失格なのかも知れないが、たくさんの作品を作ることで、その中から精査されたものが本能的に作ることができるようになるのではないかと思っていた。
 まるで石橋を叩いて渡るかのような慎重になって芸術に向かうというのも大切なことであろうが、あまり慎重になりすぎると、踏み込まなければいけない一歩を踏み込めずにいるかも知れないと感じた。
 断崖絶壁の上に掛かっている橋に、足を踏み入れて、そこから風に煽られたことで、先に進むことも戻ることもできなくなってしまった自分を、あいりは想像してしまった。
「このままどうすればいいっていうの?」
 普通に考えれば、そこから元の場所に戻る方が賢明である。前に進んで先に行きついたとしても、また同じ道を戻ってこなければいけない。そう思うと先に進むことはできない。
 だが、実際には、通り抜けたところから、先に進むことが自分の生きる道であるという発想を、最初に持つことができるかできないかが、断崖絶壁の橋の上の発想ではないか。
 断崖絶壁の発想は、きっと誰もが夢の中で見ることではないかと思っている。それは一生に一度、遅かれ早かれ見るものだ。しかも、それは一生に一度だけのものではないかとあいりは感じた。
 その時にどう感じるかが、その人の将来を占っていると言っても過言ではないだろう。だから、そのタイミングでそんな夢を見るのだろうし、
「ひょっとすると、他の人と同じ夢を共有しているのかも知れない」
 とも思っていた。
 その夢を見ている同じ瞬間、他の誰かも同じような夢を見ている。自分が感じていることが本当に自分の考えなのか分からなくなることがあるのだとすれば。それはが夢を見ている証拠であり、唯一夢を見ている本人に、
「これは夢なのではないだろうか?」
 と感じさせる状態なのかも知れないと思った。
――夢を見ていることを意識するのって、結構たくさんあるんじゃないかしら?
 とあいりは思った。
 目が覚めてから覚えていない夢はたくさんあるが。どうして覚えていないのかということを考えたことはあまりない。
 だが、
「誰かとの夢の共有」
 という発想を抱いたことを思い出してはいけないということになっているのであれば、自分とすれば納得できる気がした。
 つまりは、
「自分の中で辻褄が合っている」
 と言えるのかも知れない。
 夢を共有するということは、夢を別世界だと暗黙のうちに認識することで、ありえないことをありえるという辻褄合わせに匹敵する思いを抱いているのかも知れない。
 大胆な省略をすることが現実世界での辻褄合わせであるならば、夢の共有は夢の世界における辻褄合わせと言えるのではないだろうか。
 夢の世界を別世界と考えた時、絵の世界のように二次元の世界を認めるのであれば、夢の世界は四次元の世界であり、時間を超越したものだと考えたなら、、あいりには一つの結論が見えてきたような気がした。
「三次元の世界から見て、二次元の世界である絵の世界を大胆に省略するのであれば、四次元の世界から見た三次元である我々の世界を、四次元の住人は大胆に省略することができるのではないか」
 という思いであった。
 これは非常に怖い発想である。
 もし、四次元の世界を、
「存在する」
 と過程して、さらに
「四次元の世界というのが、三次元以下の世界を網羅しているものだと考えれば……」
 という発想も成り立つ。
 確かに二次元の世界、一次元の世界というのは、三次元にいる我々から見れば、その両方を網羅した世界がこの三次元の世界だと考えれば、四次元の世界の存在を否定しないのであれば、三次元での発想は四次元にも通用するということになる。
 ただ、四次元の世界に存在する人が、三次元を見て、
「大胆な省略ができる」
 と思うか思わないかということが大切になってくる。
 三次元の人間の発想は、絵の世界を大胆に省略するという感情を持たない。考えてみれば、大胆な省略という発想を今まで誰も考えなかったこと自体が不思議に思えるからだ。だが、もしこの発想がタブーであり、
「発想してはいけない」
 という思いを他力によって三次元の人間が持たされているとすれば、二次元、あるいは一次元の人間が故意に持たせようとしていなかったのかも知れない。
 もちろん、それも二次元、一次元に人間と同じような考えることのできる生物が存在しているというのが前提ではあるのだが、そう思うと、多次元の形を勝手に変えることは、本当はタブーではないかと思えてきた。
「ひょっとして、テレビに映っていたあの画家というのは、本当は私たちと同じ三次元の住人ではないのかも知れない」
 と思えた。
 ひょっとすると、四次元の住人が、三次元である我々を飛び越して、二次元を見つめることで、三次元の我々に対して何かの警鐘を鳴らしているのかも知れない。
 だが、この発想はあくまでも、
「上から目線」
 と言ってもいいかも知れない。
 この発想自体が、三次元である我々中心である。
 以前発想した、
「宇宙の中の地球人」
 と似ているかも知れない、
 地球人だって。宇宙人の中の一種なのに、宇宙人を発想する時は、宇宙人とは別の人類として特別扱いした発想になるものである。
 それも一種の、
「大胆な省略」
 という発想に似ているのではないだろうか。
 大胆な省略という発想は、誰もしないというわけではなく、心の中で思ってはいるが、発想することをタブーだとして考える人がいることを認めたくないという意識が無意識のうちに生成されていると思うことで生まれると言えるのではないだろうか。
 あいりは、ここまで考えることを、勇気のように感じていた。
 きっかけが自分を納得させる辻褄合わせであるとするならば、勇気というのは、他の世界を自分で納得できるように認めさせるという力に匹敵するものではないかとあいりは感じていた。
作品名:異次元の辻褄合わせ 作家名:森本晃次