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異次元の辻褄合わせ

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 あいりはテレビの中の二人の立場にいつの間にか入り込んでいるのを感じると、画面の向こうの二人も、知らず知らずに立場が入れ替わっているのではないかと思うようになっていた。
 もちろん、漠然と見ていて分かるものではない。分かったとしても、どのようにどこが入れ替わっているのかなど、想像がつくものではない。ただ一つ言えることは、インタビュアーはかなり作家に対して気を遣っているのだが、作家の方は自分の意見をただ言っているだけだった。
 作家に対してのインタビューというのは、このような状況が一番いいシチュエーションであり、特に作家が気持ちよくインタビューに答えている光景が一番しっくりくるものに見えていた。
「大胆な省略というのは、具体的にはどんな感じなんですか?」
 インタビュアーが聞いた。
 差し障りがないが、漠然とした質問なので、一番回答に困ることではないかと思ったが、質問するインタビュアーとしては別に気を遣っているようには見えなかった。
 それはインタビュアーのファインプレーではないかと思わせた。気を遣っているにもかかわらず、その雰囲気を表に出さないのは、回答者に一番気を遣っている質問の仕方ではないかと感じたからだ。
 インタビュアーと作家の先生の間に阿吽の故郷があり、見ている人に違和感を与えない雰囲気を、
「さすが」
 と感じるあいりも、
――私にもどちらかの素質があるのかも知れないわね――
 と思わせた。
 あいりには人に気を遣う素質があるわけではない。どちらかというと、まわりの雰囲気に染まることも、空気を読むことも苦手だった。だからいじめられっ子だったのであって、人に気を遣うことができていれば、苛められることもなかったのだと思うと、今さらながら後悔させられた。
 では、自分が作家のような、芸術家気質なのかとも思ったが。今のところそんなイメージはない。芸術的なことに興味がないわけではないが、その頃のあいりには、興味はあっても、一歩踏み出すだけの気持ちはなかった。
 芸術に対して一歩踏み出すというのは、別に勇気のいることではない。あいりは芸術に対して敷居の高さを感じているわけではなく、ただ踏み出すためには、何かのきっかけがなければいけないと思っていた。
 勇気を持つことは、きっかけを見つけることよりも簡単ではないかと思っていた。
 勇気というのは、何か思い切ることさえできれば、持つことができるものだ。きっかけはきっかけになるものを見つける必要があり、目の前にあっても気づかない場合さえある。つまりはきっかけを見つけるようになるには、自分の中で前向きな姿勢でなければ見つけることができないものだと思っている。
 きっかけを掴むことはあいりにとっての実感であり、勇気を持つことはどちらかというと自力でしかないように思えていた。
「きっかけは人から与えられるものなのかも知れない」
 と思った時期もあった。
 今でもその思いは変わっていない。勇気は自分だけで持つことができるものなのに、きっかけは自分に対する影響を、自分なりに消化できた時、きっかけとして自分の中で、まるで自分から掴んだような気になるのだった。
「きっかけは自分で自分にウソをつくようなものだ」
 とも考えた。
 しかし、そのウソはポジティブなもので、ウソをつくことを悪いことだとは言えないという数少ない発想でもある。
「ウソをつく」
 という表現に語弊があれば、
「辻褄を合わせる」
 という表現の方がしっくりくるのではないだろうか。
 きっかけは人によって与えられるのが最初なのだろうが、それを生かすか殺すかは本人次第である。それが、
「辻褄合わせ」
 の発想になるのではないだろうか。
 辻褄合わせという言葉をイメージしたあいりは、
――同じような発想を別の言葉で感じたことがあったような気がするわ――
 と感じた。
 すぐにはそれがどこからくるものなのか、すぐには分からなかったが、思い出してみると、
「そっか」
 と、納得するに至った。
 辻褄合わせというと、この言葉が枕詞のように、いつもであればすぐに発想できたはずだった。この日は自分の中で、発想が回りまわってやっとたどり着いたような気がしたのだ。
「デジャブだわ」
 デジャブというと、
「初めて見るはずの人だったり、風景だったりするものが、どこか懐かしさがあり、以前にもどこかで見たことがあるような気がしてくる」
 ということだった。
 あいりもデジャブを何度か感じたことがある。
 一瞬感じて、すぐに、
「気のせいかも知れない」
 と思うこともあったが、大半は、
「時間が経つにつれて、前にも見たようなという気持ちがどんどん膨らんでくるような気がする」
 というものだった。
 きっかけとは、辻褄合わせという感覚を、最初のインスピレーションだけでやり過ごしてしまっては掴むことができないものだと思っていた。だから今のあいりはきっかけはいくらでも自分のまわりにあるものだという感覚になり、ただ今が思春期で多感な時期だということが影響しているのではないかと思うと、少し寂しい気がした。
 この寂しさがどこからくるものなのか自分でもよく分からなかったが。それも、
「思春期の思春期たるゆえん」
 のように考えていた。
 デジャブは、目の前に広がった光景を、
「一瞬どこかで」
 と感じたことを間違いだと思いたくないという感覚から辻褄を合わせようと思うものではないかと思っていた。
 曖昧さが自分を納得させようとしているからなのかも知れないが、今回の作家の話にある、
「大胆な省略」
 という発想も、この辻褄合わせという発想に微妙に関係しているように思えてならなかった。
 つまりは、作家のいう大胆な省略という発想も、
――結局、辻褄合わせの発想ではないのだろうか?
 と思わせたからだ。
 あいりが、テレビを見ながら自分の中での発想を膨らませていると、インタビュアーへの質問に、作家が答えるまでの間に、ここまでの発想を巡らせていた自分に、ビックリしてしまった。
――まるで夢のような時間の感覚だわ――
 とあいりは感じた。
「夢というのは、目が覚める瞬間のすぐ前、数秒くらいの間に見るものらしいよ」
 という話を思い出していた。
 確かに完全に目が覚めてしまって夢を、覚えている覚えていないということは別にして、思い出そうとすると、かなり時間的に長い範囲の夢を見ていたはずなのに、意識として残っているものは、まるで紙の上で繰り広げられた薄っぺらい世界でしかないような気がするのだった。
 テレビの中の時間と、あいりが一人で感じている時間とは、隔たりがあるような気がした。どっちが正しい感覚なのか分からないが、少なくとも感じているのはあいりなので、とりあえず自分の感覚が違っているという考えから始めることにした。
――起きている時に夢を見るというのって、ありなのかしら?
 と考えてもいた。
 作家は質問された内容を咀嚼しながら考えていたのか、回答に少し苦慮していたようだ。それでもやっと口を開いたかと思うと、その表情が、カメラ目線であったことで、
――この人、私の気持ちが分かるのかしら?
 とさえ感じた。
作品名:異次元の辻褄合わせ 作家名:森本晃次