異次元の辻褄合わせ
「今すぐに子供がほしいというわけではないので、しばらくはお互いに好きなように生活をしていこう」
と言っていた。
それは、彼が自由を好きな人だということもあったが、母親に対しての遠慮もあったようだ。父親は不倫をするような人ではないということは母親が一番知っていた。なぜなら結婚を最初に考えた時、相手に求める条件として、
「浮気をしない誠実な人」
という定義を挙げていた。
結婚を焦らない理由の一つがそれだったのかも知れない。結婚適齢期に焦らない人はたくさんいるが、母親が焦らなかった理由は、本当に相手を吟味することを目的にしていたので、それこそ自分が無難を求める性格であるということを再認識したのだった。
子供ができたのは、結婚三年目だった。いくら子供はまだいらないと言っていても、年齢には勝てず、
「高齢出産に近い年齢になってきたわよ」
と言われるようになると、さすがの母親も意識しないわけにはいかなくなっていたのだ。
あいりが生まれてから母親は、最初の数年は子育てに専念し、あわただしい毎日を過ごしていたが、子育てに一段落すると、また絵画をしてみたいという思いを抱いていた。
近所に絵を教えている先生がいるという話を聞いて、奥様仲間の一人に紹介を頼んだ。別に習ってみたいという気持ちがあったわけではなく、ただ話をしてみたいと思っただけで、会うとしても一回だけだという意識しかなかった。
実際に会うとなると緊張していた母親だったが、会ってみるとそれほどでもなかった。話をしても、
「初めてお会いしたにも関わらず、以前にもお会いしたことがあるような気がするくらい自然な感じですよ」
と言われた。
「また、お上手なんだから」
と照れたかのように言葉では言ったが、本当に照れているわけではなく、初めて会った気がしないという気持ちは同じであったが、それが口説き文句のようには感じていなかった。
そんな気持ちになった自分に対して母親は戸惑ったようだった。先生と話ができたのはよかったのだが、戸惑ってしまったおかげで気持ち的にぎこちなくなって、最初のように二度目がなかったのは、実に皮肉なことだった。
母親がそんな自分に疑問を感じたことで、
「無難に生きること」
を再度理念とするようになって、今に至っていた。
余談ではあるが、絵の先生というのは、実は母親の絵をマネて入選した後輩の父親だった。皮肉なことになるのだろうが、そのことを母親は知ることがなかったのは皮肉なことだったのか、それとも幸運だったのか分からない。
「皮肉なことというのは、幸運なことに含まれないが、幸運なことは皮肉なことに含まれる」
と娘のあいりは今感じるようになった。
これこそ皮肉といえば皮肉なことであるが、運命は知る人ぞ知るというべきであろうか。
そんな母親から生まれたあいりは、もちろん母親に過去にそんな経験があったことは知らない。しかし、過去に何かがあったのではないかということは想像がついていて、逆にそのことで自分が束縛されなければいけないということに理不尽さを感じていた。
そんな思いからか、あいりは過去に対してこだわっている人が好きではなかった。だが、そのくせあいりは自分が過去にこだわっていることに気付いていなかった。気付いていないことで過去にこだわる人が余計に嫌いになったのだが、それこそ自分の中にある矛盾が招いたことで、そんな矛盾にいつも苦しめられているのだった。
矛盾や理不尽というものは誰にでもあるものだ。そんなことはあいりにも分かっているし、自分にも理不尽さがまとわりついていることも分かっていた。
だが、その理不尽さをいかに考えたとしても、そこで生まれてくるのは頭の中の矛盾であり、矛盾がさらに理不尽を作り出す。
それこそ、悪循環と言ったものだ。
悪循環とは、矛盾と理不尽さによって作られたものだと言っても過言ではないだろう。そう思うと、負のスパイラルという言葉が悪循環に結び付いていることで、負のスパイラルという言葉をよく口にしているクラスメイトが気になるようになってきた。
彼女の名前は安藤頼子といい、頼子のまわりにあまり人がいるのを見たことがなかった。あいり自身も、頼子が負のスパイラルという気になる言葉を口にしていなかったら、意識することのない人だっただろう。実際にいつもどこにいても誰からも意識されないタイプの女の子で、石ころのような存在に思えてならなかった。
あいりは中学に入学してすぐくらいに図書館で見つけた本の中で気になる文章を発見した。
その話はミステリー小説だったが、その中で主人公を揶揄する話になった時に出てきた言葉が気になっていた。
「暗黒星」
という言葉だった。
物理などの科学系の成績はよくはなかったが、物理学に関係したような話に興味がないわけではなかった。むしろ図書館ででも気になる現象の話の本があったりすると、読書室で一人籠って黙々と読むことも珍しくなかった。
暗黒星の本はミステリー小説だったが、小説の内容に関してはそれほど面白いと思ったわけでもなく、実際にストーリーは半分忘れていた。しかし、その暗黒星を説明するくだりでは、忘れるどことか、はっきりと覚えているというのが事実だった。
犯人のことを探偵が揶揄したくだりの話なのだが、一言一句同じ内容のことを覚えているわけではないが、ほぼ的確に捉えている言葉は覚えていた。
「昔の話であるが、ある時、暗黒星という天体を創造した物理学者がいた。星というのは太陽のように自らが光を発するか、あるいは月のように太陽の光に照らされて光っているかのどちらかである。しかし、この広い天体の中には、自ら一切の光を放つこともなく、さらには光を反射させることもなく、照らされた光を吸収して、まったく光を発しない星が存在するというものである。その星は近くにあっても誰も気づかない。光を発しないのだから気配がないのと同じだ。生命体ではないので、気配がないのである。そんな星がすぐそばにあって、ぶち当たろうとしていることに気付かないということは、これほど恐ろしいことはない。気が付けば自分が生きている星が一瞬にして砕け散ってしまうことになるからだ」
というものであり、
「そんな天体のような話を、地球上の人間という生命体に当て嵌めると、想像するだけで恐ろしいものだ」
という前置きを付け加えて、主人公である探偵は謎解きに入ったのだ。
あいりはその話を読んで、暗黒星というものに興味を持った。その小説では、あたかも信憑性のある書き方をしていたので、あいりは図書館にある物理学の本をいろいろと漁ってみたが、暗黒星に関する内容のものを発見することはできなかった。
もっと真剣に探してみれば見つかったのかも知れないが、あいりはそれほど執着するわけでもなく、探すのを早々と切り上げてしまった。中途半端に感じられるが、
「物理学の本を見つけて、物理学として見てしまうと、リアルな感覚がよみがえってきて、せっかくの小説で活きていた暗黒星というキャラクターの存在価値が半減してしまうような気がする」
と思ったからだ。
実はあいりが物理の成績があまりよくない理由はそこにあった。