異次元の辻褄合わせ
彼はうな垂れて、何かを考えているようだった。視線は前を凝視していて、その様子は見る人によっては、
「どうしていいか分からず、ただ前を凝視しているだけなんじゃないかしら?」
と思うことだろう。
しかし、あいりはそうは思わなかった。
「この人が、前を見つめているのは、後ろに何かの存在を感じて、後ろを意識しないようにしているような気がして仕方がない」
という思いであった。
まるで背後霊を意識していて、背後霊を怖いと思うことで、後ろを振り向けないのか、あるいは、存在の大きさに委縮してしまって、金縛りに逢ってしまったからなのか、どちらにしても、
――彼は何かに怯えている――
と思えてならなかったのだ。
ただ前を見つめているだけにしか見えなかったのは、そんな背後霊にあいりが惑わされていたからなのかも知れない。
最初に背後霊を意識したのは、自分の中の本能のようなものではないかと最初は思ったが、それは背後霊に誘導されたものではないかと思うようになると、今度はあいりが、
「背後霊というものへの矛盾」
を感じるようになった。
背後霊の矛盾というのは、自分が前を見つめているだけの彼を誤解していたように思ったことで、背後霊を再認識したからだった。
最初は、背後霊の存在から、前を見つめているだけにしか見えなかったと感じたのだから、背後霊の存在価値は、
「前を見ている彼」
だったはずだ。
それなのに、前を見ているだけの彼を見ていることに、背後霊の意思を感じると、自分が惑わされていると思うようになった。惑わされているということに気付いたということは、あくまでも惑わせているのが背後霊という抽象的なものではなく、自分の中にあるもう一人の自分の存在を意識したことだと思うようになると、背後霊を否定する自分がいたのだ。
つまり背後霊を否定する自分がいるのに、背後霊を否定するためには、一度その存在を認めなければいけないという、逆説の考えから矛盾を考えたのだ。
それはまるで、
「ニワトリが先か、タマゴが先か」
という禅問答のようではないか。
あいりは、そんな自分を顧みることで、何も言わない彼を見ていて、その様子がまるで幻のように感じられた。その感覚は、たまに自分で自分のことを他人事のように感じる自分を思い起こさせ、
――他人事のように見えるというのは、きっともう一人の自分の感覚なのかも知れないわ――
と思うようになった。
ということは、
「もう一人の自分は、別にいるわけではなく、やはり自分の中にいることで、たまに表に出てくるのではないか」
と思えた。
もう一人の自分を別の存在だとして考えようと思うのは、あくまでも自分の意志だと思っていたが、ひょっとすると本能なのかも知れない。
ここまで感じるようになったのに、いまだにもう一人の自分が別にいると思いたい気持ちは、意志とは違うところで働いている感覚、つまりは、本能と言えるのではないかと思えてきたのだ。
あいりは、自分の本能と呼ばれる部分を、
「もう一人の自分ではないか」
とも感じていた。
本能というのは、
「自分であって自分でないもの」
という認識を持っている。
自分の行動には、自分の意志が働いているものと、意志に関係なく動くものとの二種類がある。意志に基づくものは、もちろん意識として感覚があるが、意志に基づかないものは意識しての行動ではない。だから、本能という言葉で片づけているのだろうが、その本能の正体を、誰が知っているというのだろう。
もし、科学的に証明されたとしても、それは一般論であり、人ひとりひとりに言えることではない。中には本能だけで活きている人もいるかも知れない。
自分の意志にかかわらないということは、意識の中にはないということなので、他人事のように自分を見れる時というのは、本能の赴くままに行動している時なのではないかと感じるのも、無理のないことではないだろうか。
他人事のように自分を見る時と、他人をそのまま他人事のように見る時とで、どのように違うのか、今まで考えたこともなかった。他人を他人事のように見えるのは当たり前であるが、本当に他人事のように普通は意識して見ることができるだろうか。
少なくとも誰かと関わろうとするならば、相手の行動の一挙手一同を、
「私ならどうする?」
という目で見てしまうだろう。
「そんな面倒なことはしない」
というだろうが、それが無意識のうちであれば、それを本能と言えるのではないだろうか。
つまりここでも矛盾が存在し、本能というものは、ある意味、矛盾の塊りなのではないかと言えるのではないだろうか。
大胆さ
あいりは彼を見ていて、自分のことを本当は好きではないのだということを、結構早い段階から感じていたような気がした。しかし、
――私の思い過ごしなのかも知れない――
という思いが強く、何とか彼を信じてみようと思った。
この気持ちはあいりが自分のことを信用できていないからだという気持ちに反映していた。あいりは何事においても、自分を擁護する意識を持っていて、それが逃げに繋がっているということを意識していたのだ。
自分がいじめられっ子だったという意識から、その思いは繋がっているような気がする。普段から難しいことばかりを考えているのも、一つはそのせいなのかも知れない。
「理屈っぽいわよ」
と、人と話をしていて、いきなり言われることがあった。
本人としては、相手に話を合わせているつもりだったが、次第に自分の考えをまくし立てるようになり、それが相手に対して圧迫感を感じさせているなどと、思いもしなかった。一生懸命に話をしているつもりが、説得しているかんじになり、そのまま説教に繋がっていたのだろう。
頭では分かっているつもりであったが、実際にはそうもいかない。気持ちと裏腹に言葉が止まらずに出てくるということは、完全に自分が暴走してしまっているということである。
そんな思いからあいりは、自分に対してまわりが何か利用しようとしている感覚は掴むことができた。もちろん、確証があるわけではなく、ただの予感でしかないのだが、それでも相手を信じようとするのだ。
相手を信用しようとしないと、自分も信じることができないという思いは常々持っていて、それはいじめられっ子だった時代があったから、今までに培われてきたものだと思えるのだった。
「あいりは騙されやすいところがあるのかも知れないわね」
と、中学に入って友達になりかかった女の子から言われたことがあった。
その女の子とは結局友達にはなれなかったが、今でもいろいろ忠告してくれたりする。
「忠告って、お友達がしてくれるものではないの?」
とその人に聞くと、
「そうかしら? そうとは限らないんじゃない?」
「どうして?」
「お友達になってしまうと、どうしてもお友達としてあなたの側に立ってしまって、贔屓目に見てしまうでしょう? お友達という立場でない方が公平に見ることができるので、的確なアドバイスが送れると思わない? 私はそう思っているのよ」
その女の子は、誰が見てもクールで冷静にしか見えなかった。