異次元の辻褄合わせ
あいりの顔色が平常に戻ったと思ったのか、彼は再度声を掛けてくれた。
ええ、大丈夫です」
さっきと同じシチュエーションに、まるでデジャブを感じさせられるようだが、実際には状況は違っていた。
あいりの意識はかなりハッキリとしていて、大丈夫だと言った感覚は、最初の本能によるものではなく、今回は完全に自分の意識の元に発した言葉だった。
ただ、それが意志に伴ったものだったのかどうか自分でも分からなかったが、彼の方は意志によるものだということを理解しているようだった。
「すみません、勝手に移動させてしまいまして。でも、ベンチの方が楽ですので、しばらくこうしていた方がいいかも知れませんね」
彼は見た目の存在の薄さとは裏腹に、態度は紳士だった。
黙っている時と喋ってからとでまったく雰囲気の違う人も確かにいるが、ここまで雰囲気の変わる人は今までに初めて見たような気がした。
彼はよく見るとスーツを着ている。しかしその着こなしは中学生のあいりが見ても、ダサさが分かるくらいで、
――なるほど、彼の存在を薄くしている理由は、この着こなしにあるのかも知れないわ――
と感じた。
まだ新入社員の雰囲気を感じさせるが、フレッシュさの欠片もないことが、彼を損させているように思えた。
だが、もっと観察してみると、彼は決して損をしているわけではないような気がしてきた。それは彼を見ていてスーツをパリッと着こなし、清潔感を感じることができなかったからだ。
いくら着こなしが最悪な状態しか見たことがないとはいえ、フレッシュさの欠片も感じさせないというのは、どうもおかしい気がした。
――この人は、これで普通なんだ――
と思うと、さらに彼に対して興味を持ったのだ。
――今までどんな生き方をしてきたんだろう?
と考えるようになった。
その日は、彼が喫茶店に誘ってくれた。あいりは年上の彼を彼氏という意識を持つことはなかった。あいりのストライクゾーンはそれほど広くなく、彼氏にするのであれば、同年代か、年上でも二つまでだと思っていた。
なぜなら年上の人が下を見るよりも、年下が上を見る方が相当歳が離れているという意識を持つからだと思っていた。
だが、実際には逆だったようで、建物の屋上と地表の位置にそれぞれ人がいるとして、屋上から見下ろすのと、階下から見上げるのとではどちらが遠く感じるかということであった。
明らかに下から上を見るよりも、上から下を見る方が遠い感じがする。年齢を感じる時に、この感覚を忘れてしまっていることで、年上から年下と見る方が離れて感じるものだと思い込んでいたのだとあいりは思った。
彼と一緒にいると、屋上と階下の感覚を思い出したのだ。
そう思うと、彼とさほど歳の差を感じないようになった。それはその日のことではなく、その日彼と別れてから、再度連絡をもらった時に会った二度目の時に感じたことだった。
――どうして彼と連絡先を交換なんかしたのかしら?
その時の心境を思い出そうとしたが、かなり昔のことのようで、記憶が曖昧だった。
――記憶が曖昧だったら、余計なことを思い出す必要はないということなんだわ――
と思っていたのだ。
彼から連絡があったのは、初めて会ったあの日から、十日ほど経った時だった。
あいりは、彼からの連絡をもうないだろうと思っていた矢先だったので、連絡は正直嬉しかった。それが彼の策略なのかも知れないが、時間の感覚など人それぞれなので、どのタイミングが一番相手を嬉しくさせるかなど分かるわけもない。そのことを一番分かっているのはあいりだと自分で思っていたので、彼からの連絡を嬉しく思ったのは、彼を疑う気持ちがなかったからだ。
勇んで会いに行ったあいりだが、初めておめかしをして出かけた。考えてみれば、着こなしセンスがゼロだと思っている相手に会いにいくのに自分だけおめかしをするというのは自分でもおかしなことだと思っていた。
気分的にはおかしな思いがあった。微妙な距離を感じるだろうということは最初から分かっていた。
――会話もほとんどないだろうな――
とも思っていたが、彼が何に興味を持っているのか分からなかったこともあって、未知数の彼氏に対して、その日だけはかなりの期待を感じてでかけたことはウソではなかった。
――こんなに期待することなんか、後にも先にもないことだわ――
将来について分かるわけもないが、あいりの中では今後何かに期待するということがあったとしても、それが、
「期待する」
という言葉での表現ではないような気がした。
それがどんな気分になるのか分からないが、元々何かに期待するという行為自体、あいりとは無縁なものだという感覚があったようだ。
その思いが、
「自分は人と同じでは嫌だ」
という感覚に至ることに連動しているように思えたのだ。
あいりは彼との待ち合わせ場所を彼に任せたが、彼が指定したのは、最初の駅で気分が悪くなって。よくなるまでの間連れていってくれた喫茶店を指定したことで、
――私に気を遣ってくれたのかしら?
とあいりは思ったが、今までの自分なら、そんな感覚に陥ることはないだろうと思うのだった。
もちろん男性からの誘いなど、今までにあったわけではない。何しろまだ中学生、あいりの中ではまだまだ自分は子供だと思っていた。
思春期というと、男子の顔はいつも真っ赤に火照っていて、そのほとんどにニキビという気持ちの悪いものが浮かんでいる。そんな彼らが自分たちを見る好奇の目に憎悪すら感じていたあいりだった。
気持ち悪さは男子にだけではなく、女子に対しても同じだった。むしろ、女子に対しての方が大きかったかも知れない。男子の好奇の目を浴びながら、まるで自分が大人の女にcでもなったかのような錯覚を覚え、一生懸命に大人びようとする姿は実に惨めに感じられるのだった。
そんな思いがあるから、まわりに対して自分から近づくこともなかったが、まわりからも近づかれることはなかった。
小学生時代に苛められていたのは、算数ができるようになり、まわりに対して今までの仕返しの意味から自慢げになってしまった自分が原因であると思っていたので、中学生になってからは苛められることはないだろうと思っていたが、苛めも実は寸前くらいまでいっていて、もう少しあいりが自己中心的な考えを表に出していたら、苛めの対象になっていたかも知れない。
そういう意味ではあいりは幸運だったのかも知れない。
男子に対しても女子に対しても反感を持っていたにも関わらず、苛めの対象にならなかったのは、一度小学生の頃に苛めの対象になっていたので、単純に同じ相手を苛めても楽しくないというのが理由だっただけだ。そのことはあいりも理解しているようで、そういう意味では決して自分が幸運だったとは思っていない。
ほとぼりが冷めると、また苛めの対象になるかも知れないとは思っている。だが、一度いじめられっ子になったことのあるあいりには免疫のようなものができていると自分で思っていた。
気持ち的にはかなり楽観的ではあるが、
「何とかなる」
と思っているあいりだった。
そんなあいりが、初めて知り合った年上の男性。以前であれば、