短編集68(過去作品)
と言われるが、早起きしたことでよかったことはほとんどなかった。ただ散歩の目的は、近くの喫茶店でモーニングサービスを食べるという楽しみがあったので、散歩はそのついでだった。喫茶店には週に何度か通っていて、完全に常連となっていたが、元々が朝の時間はほとんどが常連客、馴染の人もいたが、ほとんど誰も個別行動で、朝の時間をそれぞれのリズムで過ごしていた。
新聞を読む人、雑誌を読む人、中には仕事をしている人もいたが、それが彼らのリズムだった。私は文庫本を持って行って読んでいたが、コーヒーを飲みながら文庫本を読むというリズムは、一日の中でも自分としては贅沢な時間だと思っていた。
贅沢な時間とは、お金を使うという意味の贅沢とは違う。自分に有意義で有頂天にさせてくれる時間、それを贅沢という言葉で表現する。贅沢という言葉はそれまであまりいいイメージで思っていなかったが、私の中では自分のためになるものという意味で考えている。
「時間はお金では買えない」
と思っているからで、逆に時間をお金で買えるとすれば、これ以上の贅沢はないように思うのだった。
――今日は学生時代を思い出してみるのもいいかも知れないな――
卒業してから五年が経った。もちろん、学生気分は完全に抜けているが、学生時代を偲ぶことで、初心に返るというのもいいものだと思う。
一杯だけコーヒーを飲んで顔を洗い、Tシャツにジーンズ、上に薄手のジャケットを羽織って表に出た。先ほどに比べてだいぶ霧が晴れていたが、まだ霧の粒子が光っているのを感じた。幻想的な光景の中、出かけることに背中がゾクゾクしていた。何か新しいリズムを見つけたようで、それが嬉しかったのだ。
部屋を出てから五分ほど歩いたところに少し大きな公園がある。公園の真ん中には池があり、貸しボート小屋があるくらいの大きな池で、公園の名前も大池公園という。どこにでもありそうな平凡な名前だが、私は好きだった。池の中心には噴水があり、定期的に噴き出すようになっていて、さながら水芸のようである。夜になるとライトアップもされ、池の奥にある菖蒲園の時期になると、夜も人で賑わっている。
「そろそろ菖蒲の時期かな?」
夜賑わった後の公園を想像すると、朝の閑散とした雰囲気は自分に似合った場所に思える。まるで、
「兵どもの夢のあと」
と言った感じであろうか。
池を中心にジョギングしている人や、朝から釣りに勤しんでいる人もいる。中には絵を描いている人もいて、それぞれの場所にその人のステータスを持っているようで、朝の公園は「贅沢な時間」で溢れているように思えた。
絵を描いている人の中には女性もいる。絵筆を立ててみたりして本格的な身のこなしが印象的で、思わず近くに寄ってみた。
私が近づいたことにも気づかないくらいなので、かなり集中しているのだろう。後ろを通り過ぎる程度で、あまり彼女に熱い視線を向けないように心掛けていた。まだ書き始めなのか、キャンパスにはデッサンの段階だった。これからどんな絵が出来上がるのかと思ったが、まだ想像すらできない段階である。
彼女が描いているのは、朝日に向かった絵であった。この時間になると、霧は完全に晴れていて、目深にかぶった帽子で顔はハッキリと見えないが、朝日を中心に展開される絵を光景を目の前に、朝日を全身に浴びながら描いている。
まるで透き通って見えるようだ。朝日は比較的黄色掛かっているので、透き通って見えるというのは不思議な感覚だが、それだけ彼女の肌が白く光っているのかも知れない。背は決して高くなく、体型も華奢なのだが、光に満ち溢れているのを見ると、弱弱しさは感じなかった。
彼女を見つめていたのに、朝日に目を奪われたような気がしてきたが、今日は、朝日が夕日に見える日でもあるのか、次第に身体に倦怠感を感じてきた。
「これはいかんな」
あまり朝日を眺めているのは身体に毒なのかも知れない。彼女のように目的があって眺めているのであればいいのだが、そうでなければ朝日の眩しさは漠然と眺めているには強烈である。
一通り公園を一周して、公園を出た。朝日はすでに私の中では朝日ではなくなってしまったほど、高い位置にあった。まだ七時を少し過ぎたくらいであったが、私にとっては、もう九時近くになっているような感覚だった。朝日の高さと、公園での他の人の「贅沢な時間」に触れたからなのかも知れない。
公園から、学生時代にいつも立ち寄った喫茶店までは歩いて五分程度だ。公園を出てから重たかった足取りが、歩いているうちに少しずつ軽やかになっていく。今度は日差しを正面に歩くのではなく、日差しを背にして歩いているからかも知れない。背中に日差しを浴びるというのは、落ちてきた体力を取り戻すのに十分であった。
白壁の喫茶店は遠くからでも目立って見えた。住宅街の端の方にある喫茶店で、郊外型ではあるが、駐車スペースは五台がやっという程度で、やはりほとんどは歩いてこれるくらいの常連さんなのだろう。私も久しぶりに来るので、初めての店に入るような感覚と、久しぶりということで照れ臭い気分とが半々だったが、心地よい緊張感であることは間違いない。
「この店も、被写体としてはいいものなんだろうな」
さっきの絵描きの女性を思い出していた。絵を描くのもかなりの集中力がいるのだということを感じた。思い出しただけでも、かなりの緊張感があったことを感じるからで、それは彼女の中からオーラとして醸し出されたものであった。少なくとも今日一日は、彼女の姿がイメージとして頭に残っているだろうと思わせた。
店に近づくにしたがって、白さが少しずつ褪せてきた。一番綺麗に見えるポイントがあって、そのポイントから近づくことで色褪せて見えるのだろうが、私にはそれをひっくるめても、懐かしさが新鮮に感じられるのだった。
「いらっしゃいませ」
店に入ると明るい声が飛び込んできた。アルバイトであろうが、大きな声ではないが、明るさに溢れた声は、心地よさを与えてくれた。
「やあ、三崎君じゃないか。久しぶりだね」
奥からマスターが私を見かけると、声を掛けてくれた。私は軽く会釈をしたが、思った通りの照れ臭さがあったが、心地よさ半分なので、嫌な気分は一切なかった。
「ご無沙汰です」
「五年ぶりくらいかな?」
「そうですね。よく何年振りって分かりましたね?」
「ここには、学生さんも結構来るので、入れ替わりがあるおかげで、何年経ったかというのは、分かるんだよ」
「まるで年輪みたいですね」
「そうなんだ。学生さんは私にとっては年輪のようなものかも知れないね」
彼女も頷いていた。
「初めまして、三崎さんと言われるんですね。私はここのアルバイトで柳田美智子と言います。一応短大性です」
「こちらこそよろしくです。この店は昔と変わっていませんね」
美智子に答えながら、目線をマスターに向けた。まんざらでもなさそうにマスターも微笑む。
作品名:短編集68(過去作品) 作家名:森本晃次