短編集68(過去作品)
私の言葉には、ここに来れば五年前のことがまるで昨日のことのように思えてくるのを感じるという意味を込めたものだったが、マスターには分かってくれているようだった。懐かしそうな顔には昔と同じ笑みを浮かべていたからだ。五年間と言えば結構な年数、私のように五年ぶりならば、昨日のことのように思い出すこともできるだろうが、毎日その場にいて、日を刻んできた人には、この五年を遡るのは大変なことかも知れない。
ここでの五年間がどれほどのものだったのかを知らない私は、時間に乗り遅れたかのような錯覚を覚えた。それはここにはここの時間が存在し、表とは違った流れがあると思ったからだ。
喫茶店の中は自分が感じていたよりも狭く感じられた。店の雰囲気は変わっていないが、何よりも変わったのが自分だからだと思った。五年間という期間ではない。学生として見る目と社会人として見る目が違うからだろう。
時間に取り残された感覚、それはこの間見た夢を思い出させるものだった。
その夢では私は学生だった。舞台は大学のキャンバスで、正門近くにある図書館がイメージとして浮かんできた。
「試験前になると、よく図書館で勉強していたっけ」
ギリギリにならないとエンジンのかからない私は、試験前になると図書館に籠っていた。勉強しているという感覚があるからで、なぜか家では勉強にならなかった。気が散るのは図書館でも同じなのだが、自己満足に浸ることで、家にいるより少しははかどったのだ。
試験前が大学のイメージとして一番残っているというのも、本当は寂しいものだ。あまり成績もパッとせず、試験前になるといつも慌てていたからで、ギリギリにならないとやらない性格は今も変わっていないことから、どうしてもその頃のイメージが残ってしまっている。
意識して見る夢というのは、
「夢を見ている夢」
と似たところがある。自分が見ている夢を意識しているから、夢だと思うのだ。その間に誰かを介しているのかも知れない。
舞台は学校、主人公である私以外は、皆社会人になっていて、キャンパス内にいる人たちは誰も知らない人たちばかりだ。しかも、夢の中の意識としては自分はもう社会人になっていて、試験や就職のことを心配などする必要などないのに、夢の中で、
「勉強しなければいけない」
と思うのだ。
義務感としては、学生時代よりも強いかも知れない。それだけ社会人を経験しているということなのか、義務感の強さが、どうやら「取り残された思い」を継承しているように思えてならない。
喫茶店に入ってから、思い出した学生時代は、さすがに試験で追われている時のイメージは湧いてこない。それよりも当時気になっていた店のアルバイトの女の子の方を思い出すくらいだった。
彼女とは何もなかったが、ここに来ると会えるのが嬉しかった。店を出るタイミングをいつも図っていたように思う。
「もう少しいれば、彼女とゆっくり話ができるかも知れないな」
本当は、話す機会はいくらでもあったのかも知れない。彼女と話をしたくて来ていたというのも本音だった。いつもカウンターに座っていたのはそのためだし、マスターもそおことに気づいていたかも知れない。
大学では他の女の子と話をするのは何ともないのに、この店ではどうにも緊張していた。彼女のことは気に入っていたが、付き合いたいと思うほど好きだったかというと、そうでもなかったのかも知れない。彼女は店のマスコットのような存在で、勝手に私が憧れていただけのように思うからだ。
就職活動が忙しくなってから、この店には来ていなかった。就職が決まってから来ようと思っていたが、就職が決まると、なぜか来ようとは思わなかった。どうやら、その時の私は、就職が決まったことで、学生時代のことを思い出として取っておきたい気分になったようだ。
五年前まで自分で勝手に決めていた「指定席」に座ってあたりを見渡した時に感じたのが、店が狭くなった感覚だった。いつもの指定席とはカウンターの一番奥で、学生時代もここから店内を見渡すのが好きだった。あの頃は漠然とした広さを感じていただけだったのは、毎日の同じ光景に変わりがないことを確認したかったからだった。
毎日同じ状態が、平凡なことだとは思わないが、学生時代は同じことが大切だった。反面、明日が何かが違う一日であってほしいという思いも強く、それが初心だと思っていた。「平凡な毎日を送ることが、実は一番難しい」
ということを知ったのは、最近のことだった。完全に分かったわけではないが、平凡という言葉が、表面上の言葉と実際とでかなりの差があることに気が付いたのは、それだけ何かが自分の中で変わってきているからだと思う。
モーニングを食べていると、気が付けば店内の客は私だけになっていた。五年前なら、九時過ぎくらいであれば、まだ常連さんが残っていたのだが、今は同じ常連でも忙しい人たちばかりなのだろう。仕事に行く前にモーニングを食べに立ち寄ったという人たちばかりではないだろうか。以前は近くにある商店街の店長さんたちが朝の時間を過ごすのに立ち寄っていたが、商店街も様変わりして、常連さんの中にはいなくなってしまったのかも知れない。
数か月くらい前に商店街に立ち寄ったが、五年前とはかなり様変わりしていて、店はほとんど変わっていた。閉まっている店も多く、一抹の寂しさを覚えた。あれ以来商店街に立ち寄ろうとは思わない。自分までが寂しさに包まれた気分になってしまいそうだったからだ。
「そういえば、商店街の店長さんの中には面白い人もいたな」
豪快な人が一人いて、商店街をまとめているのだろう。いつも誰かと一緒だった。店は肉屋さんではなかったか。相手はいつも同じ人とは限らないが、時々一緒にいる人で、確か靴屋さんの店長さんだったように思う。
いつも眉に皺が寄っていて難しそうな顔をしていた。身体の細さと、首の長さが、気の弱さを示しているようで、肉屋さんにいつも怒られながら、それでも一生懸命に話を聞いていた。
肉屋さんもそんな彼を決して見放すわけでもなく、時には優しく話しかけている、きっと他の人だと、靴屋さんは自分の殻に閉じこもって、何も言えなくなるのかも知れない。
「あの二人は、同級生で幼馴染なんだ」
とマスターが教えてくれた。
私にも幼馴染はいたが、高校生の時に引っ越して行った。最初の一年くらいは連絡を取り合っていたが、一度連絡を取らなくなると、それっきりになってしまった。それまでの私はどちらかというとマメな方だと思っていたのだが、そんなことがあってから、人とかかわるのが面倒に感じるようになってきた。
大学に入って、友達はたくさん増えたが、ほとんどが挨拶を交わす程度で、
「俺はこんなに友達がいるんだぞ」
と周りに宣伝したかったのだ。
独りよがりな思いだが、大学の頃の私はその程度のことで自分を満足させていたのかと思うと、恥かしく思えてきた。女性と付き合い始めてもすぐに別れてしまうのは、そのあたりに原因があったのかも知れない。
「マスター、この店も結構客層が変わったんですね」
作品名:短編集68(過去作品) 作家名:森本晃次