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短編集68(過去作品)

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 私が鬱状態になる時というのは、予感めいたものがある。もちろん、鬱から抜ける時も予感めいたものがあるのだが、鬱から抜ける時は以前からあった。
「スランプのトンネルから抜ける」
 などのように、辛い時期を抜ける時というのは、トンネルと抜けるようだというではないか。私の場合、鬱状態の時が暗黒の世界のような真っ暗なトンネルを抜けるイメージがあるわけではなく、トンネルという言葉を意識するからなのか、黄色く薄いネオンの中を通り抜けている気がするのだ。出口からは真っ白い閃光が見えてくる。今までが黄色く薄い目には優しい明かりなので、出た瞬間を思うと、
「果たして耐えられるのだろうか?」
 という不安に駆られる。
 だが、表は優しく私を包むように光をあたえてくれる。ありがたいのだが、慣れてくると、意外と暗い雰囲気を感じさせられる。躁状態には違いないはずなのに、暗さを感じるのは、暴走してしまわないようにしているのだろうと勝手に思いこんでしまった。
 表と裏の関係を考える時、光と影の関係がすぐに思い浮かんでくる。だが、同じような関係ではないことは分かっているつもりだ。表と裏は決して交わることはない。しかし、光と影はどこかで交わっているような気がするのだ。
「光があるから影がある。影があるから光がある」
 間違いないことであって、それぞれが単独で存在できない以上、どこかに繋がりを感じてしまうのは私だけだろうか。確かに光の上に影が存在することはないし、影の上に光があっても存在できないように思うが、本当は存在していて一部しか見えていないとも言えなくはない。
 目の前に見えていることだけが真実なのかと言われると、以前の私はそれ以外を信じなかったが、光と影の関係を考えているうちに少しずつ違った感覚を持つようになっていった。自分を二重人格だと思うようになったのは、光と影を感じるようになってからなのかも知れない。
 そんな時私が思い出すのは、夜の道を歩いている時に見る自分の足元から放射状にいくつも存在している自分の影である。歩きながら円を描くように回っている影、私と一緒にどこに行こうというのだろうか……。

 鏡面に
  見える面は果てしなき
   知らざる世界彷徨いたりける

 香織が撮ってきたという写真を見せてもらった。
 どこになるのか大平原にはすすきの穂があるだけで、その向こうは小高い丘になっている。光は小高い丘の向こうから洩れてきていて、まるで夕日が沈みゆくようだ。
 初めて香織を見かけた交差点を思い出した。あれだけ賑わっている交差点を、この絵を見ていて思い出せるなどおかしな話であるが、あの交差点もいにしえには、こんな風に何もないところじゃなかったのかと思うと、不思議な気持ちになってくる。
 写真を見ていて、風が吹いているのが分かる。交差点では風が吹いていても涼しいと感じることはないが、この絵の風は、たとえ夏の暑い時期であっても、冷たい風がそよいでいるように思えるのだった。
 写真を見ているうちに、油絵を見ているような錯覚に陥った。
「これと同じ絵を見たことがあるんだ」
 思い出すまでに少し時間が掛かった。あれはどこでだったかと考えていると、
「そうだ。以前妹と一緒に画廊に入った時に見た絵だ」
 妹がこの間遊びに来た時のことだった。一緒に出掛けた時に、画廊も兼ねた喫茶店が目につき、
「あそこに入ろうよ」
 と、妹に進められるままに入ったところだった。
 私には絵を見ても分からないという思いがあるので、とりあえず一通り見ただけだったが、その中にあったすすきの穂が絵全体の主役で、それ以外は真っ青な空が広がっているという絵を見たのを覚えていたのだ。私が見た絵を覚えているというのも珍しいことで、よほど印象にあったのだろう。ただ、この絵を写真があまりにも似ているので、写真を見た瞬間に、まさか絵と一緒だという感覚がなかったせいか、思い出したのは、交差点の方だった。
 なぜなら、交差点と写真との共通点は「夕日」であり、画廊で見た絵からは、「夕日」のイメージを感じることができなかった。観点が違えば思い出すものがまったく違ったとしても、無理のないことである。
 すすきの穂の一本一本を写真では見ることができる。すすきの穂に影があるからだ。じっと見ていろと、影が少しずつ移動しているように見えてくる。それが風が吹いているように見える証拠であった。
 以前、SFやホラーの好きなクラスメイトが、
「写真ってまったく動かないように見えるだろう? あれだってちゃんと動いてるんだぜ」
 と言っていたのを思い出した。
「どういうことだい?」
「俺たちの三次元からは見えないけど、動いてるんだ。少しずつだって思っているだろう? いや、その逆なのさ」
 理解に苦しんだ。何かの禅問答であろうか?
「ものすごいスピードで動いてものすごいスピードで戻ってくる。だから分からないのさ。または見ている人が目を逸らしている瞬間に動くのかも知れないね」
 私は少し呆れた。
「それだったら、まるで俺たちを意識して絵の方から悪戯しているように聞こえるけど?」
「まさしくその通りさ。俺たちは写真からからかわれてるのさ」
「どうしてそんなことが言えるんだい?」
「だって三次元で生きている俺たちがまったく同じ姿で二次元に介入しているわけだろう? 許可もなくさ。だから向こうの世界からすれば、それは領空侵犯のようなものさ。どこかに次元ごとの秩序を保つ機関のようなものがあって、そこがしていることだとすれば頷ける」
「だけど、俺たちには分からないじゃないか。意味がないだろう」
「そうじゃないさ、逆にそれをすることで彼らは三次元の世界の人間に、二次元の世界があることを信じないようにさせているのさ。もし二次元での作為がなければ、きっと彼らは写真というものをすぐに抹消しただろうね。ただ抹消してしまえば、彼らにも生きる世界を減らすことになってしまう。それって彼らにとってはジレンマになるんだろうからね」
「生きるための苦肉の策ということか」
「そんなところかな」
 それにしてもすごい発想だ。だが、そう考えると、同じ二次元の世界でも写真だけは違っているように思う。となると、鏡の中の世界も似たようなものかも知れないと思うのだった。
 同じ二次元の世界でも、鏡の世界はまた違っている。絵や写真と何が違うかというと、動きがあるからだ。ただし、その動きは決まっている。三次元の相手とまったく同じ動きではないといけないということだ。もし鏡の世界の向こう側に意思が存在するとすれば、まったく同じ行動をしなければいけないことに何を感じるのだろう。
――いや、ひょっとすると、こちらが鏡の中の相手と同じ行動を取らされているのかも知れない――
 とも思うくらいだ。
 すると、今考えている自分が架空の存在ではないかと思う、鏡の前に立った時だけ、まるで催眠状態に陥ったかのように意識が鏡の中から操られ、洗脳されることで向こう側の意識を埋め込まれてしまう。
作品名:短編集68(過去作品) 作家名:森本晃次