小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

短編集68(過去作品)

INDEX|22ページ/27ページ|

次のページ前のページ
 

 わがままな性格だと言ってしまえばそれまでなのだが、私にとって温めてきたつもりの法則を、人のものだと思いながら使うのは我慢ができない。小学生の頃の算数に感じた疑問とは感覚的には違うが、根本的なところで拒否する気持ちは同じなのだ。
 小学生時代の勉強で好きだったのは、算数と歴史だった。
 なぜ歴史が好きになったのかと聞かれれば、
「歴史には一足す一は二だという算数の定義を応えてくれそうな感覚があるからなんですよ」
 と答えるであろう。文化と呼ばれるものの始まりがいつになるのかは定かではないが、始まってしまったものは時を止められないのと同じで進化の一途を辿る。その中で教訓となることもたくさんあり、
「もし、あの時にこうだったら?」
 という疑問が歴史という学問を広げていく。
 テレビの歴史関係のクイズやワイドショーも、そういう観点からが多いではないか。結果が一つのことに決まっていても、それを遡りながらターニングポイントを探していける。これが歴史の面白さなのだ。
 また歴史という学問だけが、過去に向かって進むことを許される。逆に言えば、歴史こそが過去と現代の結びつきを学問の骨子とし、過去から現在を見ることで、今を違った観点から見ることができる。
「歴史とは、生きることの学問だ」
 という教授がいたが、まさしくその通りだと思う。止まることのない時が存在する限り、今この瞬間も、次の瞬間には「過去」になるのだ。そして過去こそが歴史の一単位。これほど深く、そして果てしない学問はないともいえるだろう。
 いかんせん、歴史は一人一人の歴史ではない。大きな単位での歴史が学問として存在している。それでも個々の研究をする教授は多い。果てしないという言葉も頷けるに違いない。
 歴史は過去に起こった事実がすべての学問なので、そこにフィクションが存在しない。逆にそれが興味を持つに至ったものなのかも知れない。元々私は何もないものから新しいものを作り上げることへの造詣が深かった。中学に入って数学を拒否した気持ちにそれが表れているのだと思っている。
 自分が考えたものが実は過去からあったという事実は考えてみれば当たり前のことだが、数学になってハッキリと宣言されてしまえば、もう私のいる場所がないと思った。新しいものを考えたつもりでも、それは過去に考えられたものに違いないからだ。
 その頃から、少し小説に興味を持った。
 あるミステリー作家が話題になり、映画やテレビドラマとして映像化されることで、学校でも話題になったのだ。
 友達の皆が話題にする、原作とテレビを比較するのが大いなる話題だったので、私も原作を読んでいた。最初に原作を読んでテレビを見た作品もあれば、先にテレビを見て、原作を読んだものもあった。ただ一律に原作の方がよかったという意見が多く、その意見には私も賛成だ。そのため、先に原作を読んでテレビを見ると、映像がとても貧弱に感じられる。かといって先にテレビを見て原作を読むと、せっかくの原作が色褪せてしまってはいないかと思うのだった。
 私は先に原作を読む方がいいと思っていた。映像化では表現できないものが本にはあるのだ。その最たるものは想像力であろう。本を読めば想像は膨らんでくる。個人差があるだろうが、基本的には果てしなく広がるように思える。それをいかに凝縮した想像に仕上げられるかが作家の技量であり、テクニックだ。中学時代に私が小説を書いてみたいと思った理由はそこにあった。
 しかし思ったよりも難しい。小学生の頃に国語が嫌いだったのも致命的なのかも知れない。しかし、国語はただの基本であって、小説ではなく作文を書くにはいい小説は少しイメージが違う。
 作文は自分だけが分かっていればいいもので、ある程度自由であるが、小説は大衆に対してのものなので、ルールのようなものが存在している。
 小学生の頃ならともかく、中学ではそれでもいいと思った。成長したというよりも、それだけ小説というものに、憧れを持っていたのかも知れない。
 憧れとは、それまでに持ったことのないもので、果てしなく遠い存在のものがひょっとすると掴めるかも知れないと感じることで、それまでの生活がガラリと変わるくらいに精神的な刺激になっていた。
 小学生の頃のような、疑問を持ったことには自分から拒否するといった性格はそのままで、果てしないものに興味を覚え、それが次第に憧れになっていく。それが小学生時代から中学生へと成長していった私の性格だった。
 いろいろな本を読んでみた。ミステリーを始めとして、ファンタジー、恋愛関係と読んでみたが、なかなか自分に書けるものがないように思えた。
「小説を書くには経験が必要だからな」
 と友達と話をしていたが、その通りだと思った。中学生の私ではあまりにも経験が付属している。
 何よりも人と絡むことが苦手であった、同じ趣味を持っている友達だから気兼ねなく話すことができるが、それ以外の人とでは話をするのが難しい。
 一度ホラーのようなブラックユーモアの短編小説を読んで、
「これだ」
 と思った。大人の雰囲気を感じさせる小説で、最後の数行にすべてが凝縮されている。そんな小説を書きたいと思った。
 経験という意味では確かに薄いが、書いてみたいという気持ちに一番させられる作品だ。しかも、舞台のほとんどは日常生活。
「平凡な日常から、誰もが陥るかも知れない不思議な世界」
 これがモチーフなのだ。
 私もそのモチーフの中から、いかに日常を探れるかという逆をイメージしてみた。その方が発想が豊かになるからだった。
 いくつか作品の構想を練ってみて、書き出したのはいいが、どうしても文章が納得いくようなものにならずに、途中で挫折してしまう。その繰り返しだった。元々自分で納得しなければ信じない性格。そのためにちょっとでも原案から外れると、諦めてしまうのだった。
 まわりから見れば、
「それくらいいいじゃないか。続けていけば、最後には辻褄が合ってくるものさ」
 と思うだろうが、その頃の私にはそれが信じられなかった。続けてみようと思って書いたこともあったが、どこかで詰まってしまう。詰まってしまうと、
「やっぱり駄目だ」
 と感じてしまい、先には絶対に進むことはできない。結局一作品も完成させることもできずに諦めてしまった中学時代であった。
 今から思えば中学時代というのは複雑な気持ちの時代であった。小説を書けなかったことは自分の中で汚点として残ってしまったのは間違いないが、書こうという気持ちになり、それなりに努力したことを消してしまいたくないという気持ちも本当の気持ちである。
 私は裏表のない人間だと思ってきた。
 しかし、最近では二重人格ではないかと思うようになってきた。大学時代、ちょうど二十歳を超えた頃からくらいであろうか。私には躁鬱症が表に出てくるようになったのだ。
 表に出てくるようになったというのは、以前から自覚のようなものはあったが、まわりは誰も気づいていないようだった。精神的なものは結構きつかったと思うのに、何が基準でまわりが気付くようになったのか、よく分からない。
 あるとすれば、予感を感じるようになってからのことではないだろうか。
作品名:短編集68(過去作品) 作家名:森本晃次