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短編集68(過去作品)

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 偶然は時には必然だったことを後から思えば追認してくれることがある。印象的には前の方がインパクトが強いのだろうが、後から増幅させるエネルギーも相当なものである。
 香織がファインダーを構える姿を想像するのは難しいが、以前にどこかで見たことがあるような気がしてならない。それは妹に対して持った生まれる前にも見たことがあるという感覚と似ているようだが少し違っていた。
 カメラというと、すぐにフラッシュの閃光が頭に浮かぶ。ただ、イメージすることはできない。香織との待ち合わせの時に、喫茶店の窓越しに見た白い閃光、そのイメージが残っているからだ。
――あれはカメラのフラッシュだったんじゃないだろうか?
 とも思ったが、あの時の香織は荷物らしい荷物は何も持っていなかった。本格的なカメラはもちろん、使い捨てカメラを入れるバッグすら持っていなかった。逆にここまで軽装でいいのだろうかと不思議に思ったくらいだった。もちろんあの時は香織の趣味がカメラだということを知らなかったので、疑ってみることもなかったのだが、もし知っていたとしても、今度は香織の性格から考えて、そんなことをするはずなどない。お互いに隠し事はしないはずだからだ。
 考えてみれば私は無趣味だった。しいて言えば映画を見るくらいだが、クリエイティブな趣味は何も持ち合わせていない。妹にしても実季にしても絵画が趣味で、香織は写真、それぞれに芸術という創作的な趣味を持てる羨ましさを感じるようになっていた。
「女性は男性に比べて繊細だしな」
 とも感じる。
 芸術的なことにはまったく疎かった私も何かを始めたいと思い、最近では本を買って読むようにしていた。できれば小説などを書いてみたいという願望がある。もっとも、身術の時間もそうであったように、国語の時間も死ぬほど退屈だった。何も分からないからである。
 私は自分で納得したことでなければ、何も信じないタイプであった。
 勉強にしても、なぜ勉強しなければいけないのかという、まず基本的なことが分からない。
「勉強しなさい」
 小学生低学年の頃、よく親から言われていたが、理由を聞いても、
「立派な大人にはなれませんよ」
 取ってつけたようなセリフであることは子供でも分かった。表情を見れば、焦りのようなものが出ていたからである。
「じゃあ、立派な大人というのは?」
「いい学校を出て、いい会社に入って……」
 と、それ以上は言葉が出てこないようだ。私は母の続きの言葉を好奇の目で待っていた。もちろん、答えがそれ以上望めないのを分かっていてである。
 そんな中途半端なことを言われて、勉強をする意義など分かるはずもない。四年生になるくらいまでは、宿題すらまともにしていかなかった。
 私は算数から疑問を持っていた。
「一足す一は?」
 と聞かれて、心の中では、
「何をバカみたいなことを聞くんだ?」
 と思いながら、
「二です」
 と答える。
「じゃあ、どうして二なんですか? 三や四ではいけないの?」
 と言われると、答えようがない。もちろん、きちんと礼を上げれば答えられるのだが、
「一足す一は二なのだ」
 という固定観念に縛られてしまうと、答えられないだろう。私もそうである。固定観念に囚われてしまっているので、それ以上の発想は出てこないし、疑問だけが残ってしまう。
 算数への第一歩が疑問なのだから、それ以上のことはすべてが疑問。固定観念に囚われたのなら囚われたまま納得できればいいのだが、私はそうはいかない。皆、どうして算数ができるのかがずっと疑問でもあった。誰も数字のからくりに疑問を持たないのかということであった。
 しかし、疑問を持つかどうかが問題ではなく、疑問を持ったままでも先に進めるかどうかが問題である。私はそれができなかった。いや、自分の中で進むことを拒んだのだ。
 学校の成績は最悪、特に算数はほとんど白紙で提出したりしていたので、先生からもいろいろ聞かれたり、時には叱られたりもした。先生からしてみれば、バカにされていると思ったのだろう。
 それも仕方のないことだ。確かに算数のレベルが上がっていくごとに、分からなくなっていく生徒もいるが、最初から拒否する生徒はあまりいない。それが算数に対しての拒否なのか、勉強全体に対しての拒否なのかで別れるからだ。
 私は勉強全体に算数の影響が響いていた。少しでも分からないことは、そのままにしておけない。途中で引っかかると先に進めない。美術や国語もその一つだった。
 算数に関しては、四年生の頃にあるきっかけから急に目覚めることができた。
「算数なんて簡単さ。整数を基本に考えてみてごらん。一定の距離に対して、一から順番に並んでいるだけでしょう? そう思えば大抵のことは理解できると思うんだけどな」
 小学四年生の時の担任の先生が、算数の授業の前に話をしてくれた。私のクラスは比較的、算数の成績が悪かったようだ。もっとも平均点を下げているのは、私だったのだが……。
 目からウロコが落ちるとはまさしくこのこと、おかげで算数に開眼した私は、それから算数のとりこになった。
「なるほど、確かに一定の間隔で並んでいるだけなんだ」
 と思いながら数字を思い浮かべていくと、いろいろな法則を発見することができた。
 そしてまた思うのだ。
「なるほど、確かに一定の間隔で並んでいるだけなんだ」
 この繰り返しである。
 数字は魔術だった。一つの観点から見た結果と、ちょっと違った観点から見た結果が同じになる。突き詰めてみると、元々の始まりが一緒だったことに気付く。
「出発点は間違いなく違ったはずなのに」
 同じ答えが導かれたら、そこから回帰的に元に戻ろうとすると、違う道を通っても同じところに戻ってくるというのは、最初の始まりが違うというのが錯覚だったのか、それとも戻った後が錯覚だというのか、いや、どちらも間違いではないというのか、いろいろ考えてみると、算数での始まりも得られた結果も、回帰して求めた出発点も、どれも間違いではないのだ。
「算数には魔力が存在する」
 小学生の私だからそんな考えに至ったのかも知れないが、今の私にはその頃の頭に戻ることもできる。まるで昨日のことのように思い出され、
「そういえば、ずっと数字のことばかり考えていたな」
 と思ったものだ。
 中学に入って算数が数学になる。数学の中でも代数と呼ばれる学問になるのだが、そのままの意味の解釈通り、数を代える、つまり宛がうという意味にも取れると、すべてが公式という概念で片づけられるものとなってしまった。
 私が小学生の頃に苦労して見つけた法則も、昔の人が公式として残しているのだ。考えてみれば当たり前、算数の歴史の長さを考えれば、一人の小学生が二年や三年で苦労したとはいえ、楽しみながら考えた公式など、過去に簡単に発見されていて当然なのだ。
 私は、ここでまた数学を拒否してしまった。
「自分で考えた公式を使うのならともかく、昔の人が見つけて標準化されてきた公式を使うのは嫌だ」
作品名:短編集68(過去作品) 作家名:森本晃次