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短編集68(過去作品)

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「そうだね。昔の常連さんは結構いなくなったかな? どうしても商店街が寂しくなると仕方がないかも知れないね。結構同級生や幼馴染がいたんだけどね」
 靴屋さんと肉屋さんの顔が浮かんできたが、五年も経っているのでぼやけている。二人のやり取りだけが思い出され、マスターが洗い物をしている姿がよみがえってきた。
「こんにちは」
 その時扉が開いて、一人の客が入ってきた。帽子を目深にかぶって、手には大きな平べったい真四角の袋を下げている。華奢な身体が少年のように見えるが、私にはそれが女性であることは分かっていた。先ほど大池公園で見かけた絵を描いていた女の子ではないか。
「いらっしゃい」
 美智子がニコニコ微笑みながら応対した。
「実季、今日はいい絵が描けた?」
「まだ描き始めだからね。これからよ」
 大きな荷物を足元に置いて、実季と呼ばれた彼女はカウンターの私と反対側、つまりは入り口付近の隅の席に座った。
「彼女は私の高校の頃からの友達で、日高実季っていうの。趣味で絵を描いているんだけど、なかなかのものなのよ」
 美智子はまるで自分のことのように楽しそうに話す。天真爛漫で嫌みのない性格が美智子の最大の魅力である。
 実季はといえば、実に冷静だ。公園でキャンバスに向かって真剣な表情だったのが、そのままである。と言っても、あの時は朝日のせいでハッキリとは顔が分からなかったが、今はハッキリと見て取れる。
 顔立ちはクッキリしていて、まるでハーフを思わせる雰囲気だと勝手に思い込んでいたが、思ったよりもあどけない表情である。却って、雰囲気と表情がアンバランスなことが私の気を引くことになった。
「実季」という名前もピッタリに思えた。もっとも最初は漢字が分からず、「美樹」だと思っていたが、知らない人は誰でも最初はそうだろう。
「絵はいつ頃から描いているんですか?」
「高校の頃からかしら。本当は美術の時間って嫌いだったんですよ」
「それがどうして?」
「なぜかしら、きっと朝日を見てからかも知れないわ」
「朝日ですか?」
「ええ、眩しい朝日を見ると目が痛くなってしばらく目を瞑ったままになってしまったんだけど、目を開けてみると、やたらとまわりの色が鮮明に見えたんですよ。それから朝日が気になるようになっちゃって」
 いつの間にか私と実季の会話が中心になっていた。マスターと美智子はそれぞれ自分の仕事をしていて、知らない人が見れば、私と実季が初めて出会ったとは思わないかも知れない。
 これが実季との初めての出会いとなった。まだ、お互いのことを何も知らない時期で、これからどのような仲になっていくのか胸がドキドキしている私だったが、実季も同じように思っていることを分かっていたような気がする。
 社会人になって初めて気になる女性となった実季だったが、帽子を脱ぐと思ったよりも神が長く後ろで結んでいた髪をほどいて見せた。
「絵を描いている時の私と、普段の私は別人なんだって思ってるんですよ。だから、帽子も脱ぐし、皆が見ている前でも髪を下ろすことを気にしないんです。ここには美智子さんがいるけど、お店の人としてだったら、私はそのまま絵を描いている私として接するんですよ。家に帰るまでは絵を描いている私だということでね」
 実季が私を気にしてくれていると感じたのは、髪をほどくという行動を示し、その理由を話してくれた時だった。絵を描いている彼女も気になるが、普段の実季をもっと知りたいと思ったのが、私の実季に対しての気持ちの最初だったのだ。

 孤独にて
  夕日を見つめて優雅なる
   寂しさ深き沈みゆく影

 営業を終えて、会社に帰る途中に見る夕日は、何度見ても疲れを誘うものである。その日がいい一日であったかどうかに関係なく、疲れは毎日平等に襲ってくる。精神的なものは別にして、足のむくみはどうしようもない。特に湿気の多い時は余計にきつく、足の裏が攣っているかのようで、まともに歩けない時もあったりする。
 最後の訪問先の営業を無事に終え、後は会社に帰るだけ、そう思うと一気に疲れが噴き出した。
 駅前のカフェに立ち寄りアイスコーヒーを飲んだ。乳製品がダメな私は、ガムシロップをたっぷり入れ、ストローでかき回すと、氷がグラスに当たる音が清涼感を誘い、ホッとした気分にさせてくれる。
 駅前のカフェに寄るのはいつものことであるが、これだけ暑くなってくると、アイスコーヒーが恋しくなるというものだ。実は今日は朝から駅前のカフェでアイスコーヒーを飲むのを決めていて、すべてが予定の行動だった。カフェまでが私の今日のノルマと言ってもいいだろう。
 ただ、駅前のカフェにはさほど長居はしたくない。客が多いのは分かるが、勉強しているか、パソコンを開いて何かを打ち込んでいるかと言った客が目について、何やらイソイソしい感じがする。落ち着ける雰囲気ではないのだ。これから会社に帰っても、まだ一仕事も二仕事も残っている私にとって、喧騒とした雰囲気に長居は毒だと思えたのだった。
 アイスコーヒーを飲んでいると、喉の周りに纏わりついた汗がさらに少し噴き出してきた。しかし、気持ち悪いとは思わない。発熱と同じで、ある程度まで汗を掻いてしまい、描き切ってしまったところから心地よさが始まるのだと思っている。実際に次第に汗が引いてくると、汗と一緒に疲れが引いてくる気がするからだ。実際には感覚がマヒしてくるからなのかも知れないが、汗が体温を吸い取る状態に比べれば、健康的に思う。心地よさが加われば、しばらくその場にいたいという衝動にも駆られる。
 それでもそうも言っていられないのが夕方の喧騒とした雰囲気である。夕日の眩しさはすぐに夕凪の時間に変わり、あっという間に夜のとばりがやってくる。会社には夜のとばりが下りるまでには帰り着きたい。いつもの行動であったが、心地よい気持ちに身体を奮い起こして店を出る時には、勢いがいるのであった。
 朝の目覚めに似ているかも知れない。ぐずぐずしていると起きれるものも起きれなくなってしまう。それと同じで、身体が動かなくなる前に動いてしまおうと思うのだ。
 身体が動かなくなる理由の一つに、睡魔が襲ってくるからだ。夕方になるとなぜか眠くなってしまうのは私だけだろうか。日が沈んでしまうと、今度は目が冴えてくるのだが、なぜなのか自分でもよくわからなかった。
 カフェを出て駅前の交差点を通り抜ける時、目の前に閃光が走ったような気がした。閃光は真っ白ではなく、少し黄色掛かったもので、まるで夕日をまともに見たかのようだった。
 カフェに寄るようになって最初の頃というものは、帰りの交差点では、足元ばかりを見ていた。まだかすかに明るい日差しの中で、かろうじて足元から伸びている前を歩く人の影を追いかけていたのだ。なるべく踏まないようにしようと心がけながら、前から歩いてくる人を避けるのも大変だった。それでも足元の影が気になるのは。夕凪の時間だからだろう。
作品名:短編集68(過去作品) 作家名:森本晃次