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悪循環の矛盾

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「人の顔を覚えられないのは、集中力が足りないからじゃないか? 何かに集中するというのも必要なことなのかも知れないぞ」
 と、当時の小学校の先生から言われた。
「集中力ですか? 確かに足りないとは思うんですけど、それと人の顔を覚えられないことでは少し違っているような気がするんですが」
 と話した。
 永遠は自分が人の顔を覚えられなくなった原因の一つに、待ち合わせの時、違う人に友達だと思って声を掛けたことが関係していると分かっていた。ただ、まだその時は自分に自信がないことからだという気持ちにはなっていなかったので、先生の言うことにも一理あると感じ、ハッキリと否定することはできなかった。
 それも自分に自信が持てないからだったのだろうが、そんな永遠を見て先生は急にいら立ちを示した。
「何を言ってるの。あなたは人の顔を覚えられないんでしょう? それは集中できないからなのよ」
 とヒステリックになって、自分の意見を押し通そうとしてきた。
 永遠はそんな先生に圧倒され、不本意ながら先生の話を聞くことになったが、その時の先生は、では具体的にはどうすればいいという話をしたわけではなかった。
「何か趣味を持って、それを一生懸命にやればいいんじゃないかしら?」
 というだけで、趣味を具体的にどうすればいいのかという伝授はなかった。
 まずは自分に合った趣味を見つけるのが大切なのだが、そのことも先生の口から出てくることはなかった。
 先生とすれば、集中力を持つということを説得するだけで自分の仕事は終わりだとでも思ったのだろうか。すっかり自己満足したようだった。
 永遠は先生に見放されたかのような気持ちになったが、却って自分一人で考えることができたことが、自分に自信が持てていないということに気付くきっかけを作ったので、いわゆる怪我の功名のようなものだったと言えなくもない。
 その発想から絵画に向かうまでには、そんなに時間が掛からなかった。だが、何かの趣味を持つということは、それまで何も考えていなかった永遠にとっては難しいことで、文章を書いてみようと思ったり、本を読み漁ってみようと思ったりといろいろ考えたが、どうにも自分の中でイメージが湧かなかった。
 音楽や絵画などの芸術を考えていたので、音楽、絵画、文芸と細かいところまで考えていくと同じそれぞれのジャンルは芸術を超えて繰り返し考えるようになっていた。そのため、同じ芸術を何度も考えることになり、細かい周期で考えているのに、以前に考えた芸術への意識がかなり遠い過去のように思えてしまう。
――そうだわ。この思いが人の顔を覚えさせないのかも知れないわ――
 先生が言った、
「集中力がない」
 という発想に近いのは近いが、かなり遠いところでの近さであった。
 ただ、思い出そうとすると時間を掛ければ思い出すことができた。顔をまったく思い出せないことと直結しているとは思えない。
 そう思うと、思い出すのが友達と間違えて、キョトンとされたあの時であった。
 自分に自信がないという思いと、記憶が重なってしまうことで薄らいでくる過去の意識とが融合して、顔を覚えることができないと思っているのだとすると、本当は覚えているのに、記憶の奥から引き出すことができず、覚えていないと思い込んでいるだけなのかも知れないと思った。
 ただ思い出せないだけであれば、いずれ思い出すこともできるという発想に至れば、気も楽になってきた。そうこう考えているうちに、趣味として持ちたいものが決まってきた。それがデッサンだったのだ。
 趣味を持ちたいという思いと、人の顔を覚えられないことを克服するということは、いつの間にか分離した考えになっていた。
――本当は汚れるのが嫌いでデッサンにしたんだけどな――
 という思いは永遠がデッサンを描き始める頃にだけちょっと感じたことだった。
 実際にはジャンルが芸術を超えて繰り返すことで、デッサンに辿り着いたという思いは強く持っていて、
――こんな思いをするのは私だけではないんじゃないかしら?
 と感じるようになっていった。
 デッサンを続けることで、少しは人の顔を覚えることができるようになったと思ったが、それは間違いだった。余計に覚えられないような気がしてきたのは、意識のしすぎであろうか・
 人の顔ばかり描写しているので覚えられないのだと思い、絵は風景画に切り替えた。人を描くのは苦手だと思っていたが、人の顔を忘れないようにするために始めたデッサンだったので、人の顔を描かなければ意味がないと思ったのは思い込みだったようだ。
 ただ人物描写は難しい。表情に影を持たせたり、何よりも動的なものを描くのが難しいと感じたからだ。
 そう思い、風景画に変えてみた。
 風景画にすると、動きを捉えなくてもいいが、スケールは大きなものになる。
 数か月描いているうちに、永遠は別のことを考えるようになった。
「デッサンというのは、目の前にあるものを忠実に描くものだと思ってきたけど、それが間違いではなかったかと思うようになった。時には不必要だと思えることは大胆に省略することも大切だ」
 と思うようになったのだ。
 その心は、大きなものを描いていると、どうしても細部までうまく描けない、それは被写体が大きければ大きいほど、バランスが大きく感じられる。そう考えてしまうと、不要な部分が目立ってくるように感じられた。それが、
「不要な部分をカットする」
 という考えに結び付いたのだった。
「芸術だったり、勝負事には意味がある」
 という将棋のプロの人が話しているのをテレビで見たことがあった。
 インタビュアーからインタビューを受けた内容が、
「将棋を打っていて、矛盾を感じる時ってありますか?」
 という内容だった。
 すると、そのプロの人が言うには、
「将棋での矛盾ですか? 矛盾というには少し違うかも知れませんが、あなたは、将棋の布陣で、どの布陣が一番隙のない布陣だとお思いですか?」
 と聞かれて、そのインタビュアーは困ったような表情をした。
 その気持ちは分かっている。
――あなたはプロだから分かるんでしょうけど、こっちは素人なので分かるわけはないじゃないか――
 と言いたげに訝しい表情になった。
 すると、そのプロは少し申し訳なさそうにこう答えた。
「申し訳ありません。実は最初に並べた形なんですよ。一手打つごとにそこに隙が生まれる。つまりは勝負が進むにしたがって、自分も相手もお互いに不利になっていくんですよ。そう考えると勝負なんかしなければいいと思えてくる。それが一種の矛盾のようなものなのかもしれませんね」
 と、答えたのが印象的だった。
 そう思えば、絵を描くのだって、最初の筆をどこに落とすかによって、すでに完成度が決まってしまうのではないかと思うと、不思議な気持ちになるのだった。
 風景画を描くようになって永遠は自分が矛盾の中で生きているのではないかということに気付かされたのだった。
 矛盾というと普段から感じていることがあった。絵を描いていて、大きな被写体を描こうとする時、
「絵を描く時は、必ずしも被写体を忠実に描かなければいけないわけではない。時には大胆に省略することも大切だ」
作品名:悪循環の矛盾 作家名:森本晃次