悪循環の矛盾
「僕が絵を描いていたのに、途中から写真に乗り換えたのは、今永遠さんが言ったような写真の呪縛を解こうという意識があったからなのかも知れないと今になって感じているんですよ。絵を描くというのは、バランスや最初にどこに筆を落とすかということの難しさからあきらめたように思っていたんだけど、実際にはそうではなかった。絵を描く時、大胆に省略すればいいという意識を持ったのは、ひょっとすると、永遠さんが感じたような覚えられないことの呪縛に対しての意識だったのかも知れない。写真に対してまだ何も答えは出ていないんですが、しばらくは写真に対して意識の深層心理を抉るような気持ちになるんだって感じました」
「呪縛なんていう言葉、どうして出てきたのか、私も不思議に感じます」
と永遠がいうと、
「それは、もう一人の自分という意識を強く持っているからなんじゃないですか? さっきの人の顔を覚えられないのをもう一人の自分の存在を正当化して、そのもう一人の自分のせいにしようとしているのは、どこか辻褄合わせをしているかのようじゃないですか」
「私は最近、お見合いパーティに出席するようになってから、余計に人の顔を覚えられなくなったような気がするんです。でも、最初の対面の時、どこかで会ったような気がする人って結構いるんですよ。そういう人に対しては、すぐにため口になってしまう。口では初めましてなんて言っているのにですね」
「相手はどうですか?」
「相手も同じように、ため口を返してくれます。そのほとんどは喜んでくれているように感じるので、私も悪い気はしないんですよ」
「それは、あなたが記憶の中でその人のことを覚えていたからなんでしょうね。だけど、覚えようと意識していたわけではない。無理に覚えようとすると、却って覚えられないものだって思いますよ」
慎吾の話を聞いていると、それまでの呪縛が少しずつ解放されて行っているように感じた。
「でも、相手は私が覚えていたことを知られたくないと思っているんじゃないかって感じるんです。お互いに初めての方が都合がいいでしょう?」
「そうかな? 確かに気を遣っているように感じるけど、その決められた三分間という時間が、とてつもなく長く感じられてしまうんじゃないですか?」
「それは確かに言えます。私は相手のことを明らかに覚えていたことがあったんですが、そういう人に限って、嫌な思い出しかないんです。二度と会いたくないと思った人ばかりなんですね」
「それは夢の記憶と同じ現象なんじゃないですか?」
「というと?」
「夢を覚えている時というのは、決まって怖い夢の時だってさっきも言っていたじゃないですか。人の顔を記憶しているというのも、覚えていたくないという不快に感じる顔だと思うと、記憶というのは、夢の世界と現実世界とで比較対象になりえるということになりませんか?」
と慎吾は言った。
「夢というものに対して、私はもう一つ考えていることがあるんです」
と永遠が言った。
「どういうことですか?」
「夢というのは、潜在意識が見せるものだって話を聞いたことがあって、私もそうなんだろうって思っているんですが、本当にそうなんでしょうかね?」
「というのは?」
永遠は奥歯にものの挟まったような言い方をした。
慎吾は、何が言いたいのか分かるような分からないような漠然とした思いを抱いていたのだが、何となく言いたいことは分かっていると思っていた。
「夢は覚えている夢と、覚えていない夢がありますよね。さっきもお話に出たように、本当は眠ってからいつも夢を見ていて、そのほとんどを覚えていないだけなんじゃないかって考えもありますが、夢を見たことすら忘れてしまっているというのは少し不思議な気もするんですよ」
永遠は決して話が下手くそなわけではなく、言葉を選んで話しているつもりなのだろうが、話の内容がデリケートなもので、どうしても表現が難しくなってしまっているのではないだろうか。
「永遠さんは夢というのは創作なんじゃないかって思っているんですか?」
「ええ、創作という表現がいいのか、架空という表現がいいのかなんだって思います。どちらも英語にするとフィクションという意味なんだって思いますが、その反対をノンフィクションだとすると、私は夢はフィクションであってほしいと思うんです」
永遠の言いたいことが少し分かった気がした。
慎吾は永遠の意見を聞いたうえで、
「僕は逆を考えます。夢というのはやはり自分の中にある潜在意識が見せるものだと思うんですよ。ただ、題材が潜在意識というだけで、そこから膨らませて見る夢は、創作なんって思いますね」
と、慎吾は言った。
「私は、中学生の頃、小説を書いてみたいと思ったことがありました。実際には書くことができなかったんですが、書くとすればフィクションしかないと思っていました。でも、テーマを考えたり、プロローグを考えようとした時、どうしても自分の経験からしか話を作ることができないので、それで小説を書くことを諦めたんです」
と永遠は言った。
「それは小説を書く人皆同じなんじゃないでしょうか? プロであってもアマチュアであっても一緒なんじゃないかって思いますよ。要するに、人間は自分が経験したこと以上のことを頭に描くことはできても、経験したこと以外を頭に描くことはできないんじゃないかって思うんです」
「なるほど、そうかも知れませんね。そういう意味でいけば、夢だって経験に基づいて見ているものに違いないですからね。夢の方が起きていて発想するよりも制限がないのかも知れませんね。だから、夢から覚める時、忘れてしまうのかも知れませんね」
という永遠の話を聞いて、
「その発想はおとぎ話の発想に繋がるものかも知れませんよ」
と慎吾は少し話の矛先を変えた。
「どういうことですか?」
「昔から伝わるおとぎ話の中によく出てくるものとして、何か悪いことをすると、その報いを受けるというものがありますよね。玉手箱を開けてお爺さんになってしまった浦島太郎のお話だったり、見てはいけないと言われて、我慢できずに見てしまって、いなくなってしまった弦の恩返しの話だったり、そんなお話に通じるものがあるような気がしたんです」
「それは直観でですか?」
直観という言葉を口にした永遠を見て、慎吾は相手が自分と同じことを考えていると思ったのか、
「ええ、その通りです」
と、頷きながら答えた。
「直観という意味を考えると、忘れてしまうのも分からなくもないような気がします。夢というのは、目が覚める数秒の一瞬で見るものだと何かの本で見たことがありましたが、僕も今はその意見に賛成です。そう思うと、覚えていないもの理屈に合うような気がしませんか?」
という永遠の話に、
「それは、夢の世界が現実世界とは別の次元に存在しているからだという発想ですか?」
と慎吾がいうと、
「そう思ってもらってもいいと思います」
と永遠はこちらもハッキリとした口調での言い回しではなかった。