悪循環の矛盾
「じゃあ、その恩師の先生というのは、論理物理学者の先生なんですか?」
「ええ、そういうことになります」
「論理物理学の先生がおとぎ話をテーマに講演されるというのも興味深いことですね。どういったお話になるんでしょうね」
「おとぎ話が物理学に近いのか、それともおとぎ話の発想が物理学に結び付いてくるのか、どちらにしても、論理というものは、元々自然界にあるものを数字として解明しようというものですから、おとぎ話の世界も、昔の人がその当時の発想から考えたこととして十分にありえることだと思うんです」
「確かにそうですよね。今は科学が進歩したと言っても、まだまだ解明されていないことなんて結構あるんでしょうからね。そもそも全体が分かっていないんですから、今どれだけ解明されているかどうかなど分かるはずもないんですよ」
永遠も物理学には興味があるように慎吾は感じた。
「西遊記というお話がありますが、あれは唐の長安から天竺に向かって、一度も行ったことのない道を通って出向いていくというお話ですよね。あれだって、行ったことがない道をひたすら西に向かって歩いていくというものですよね。中には道なき道もあるでしょうし、どうすればたどり着けるのかなんて、誰も知らないんじゃないかって思うんですよ」
「以前に、ドラマとして映像化された時見ていたんですが、孫悟空であれば、雲に乗って一っ飛びですよね。でも天竺行きを命じたお釈迦様は、それを許さなかった。ある日孫悟空が雲に乗って天竺まで行こうとした時、お釈迦様と口論になり、孫悟空は自分の力ならあっという間に天竺まで行けると豪語したんですが、それをお釈迦様は黙ってやらせたんですね」
「それでどうなったんですか?」
「孫悟空は雲に乗って一気に数千里を飛んだんですが、そこで雲の間から、数本の柱が経っているのが見えた。そこで孫悟空は、そこを地球の果てだと思って、記念に自分の名前を書くことでのサインをしたんですね」
「それで?」
「また一気に三蔵法師のいるところまで戻って、自分が地球の果てまで行ったということを告げるんです」
永遠は黙って聞いていた。
慎吾は続ける。
「孫悟空はお釈迦様を呼び出して、自分が地球の果てまで飛んで行ったことを告げます。するとお釈迦様は、そこがどうして世界の果てだと言えるんですか? 証拠は? と聞いたんですね」
「さっきのサインがその証拠だというわけですね?」
「ええ、そうです。お釈迦様にそう言った孫悟空は自慢げにお釈迦様の前で威風堂々とした態度を取ります。しかし、そこでお釈迦様は孫悟空を見下ろして笑うんですよ」
「それで?」
「面白くないのは孫悟空です。どうしてお釈迦様が笑うのか怒って尋ねると、お釈迦様が答えます。あなたのサインってこのことですかって言って、自分の指の一本を差し出します。そこには孫悟空の名前が書かれていました」
「孫悟空が行ったと思っていた世界の果てというのは、お釈迦様の掌の上だったということですね」
「ええ、そうです。だから、よく掌で踊らされるという言葉を聞くことがありますよね。自分が策を弄して相手を翻弄したと思っていることが、実際には相手の術中に嵌ってしまっていたということです。どんなに強大な力を持っていたとしても、奢ってしまって前を見ることができなくなってしまうと、相手に翻弄されてしまうことに気付かないということへの戒めのようなものではないでしょうか」
「そういえば、百里の道を行くのに、九十九里行って半ばとすという言葉がありますが、まさしくこのことなんでしょうね」
「それともう一つの戒めとして、未知の世界、つまり見たことのないところというのは、実際に辿り着かないと本当にあるかどうか分からないというのも、このお話の中の戒めとしてありました」
「どういうことですか?」
「孫悟空たちが、やっとの思いで天竺に辿り着いたというお話があるんですが、そこでお釈迦様から約束の経典をいただいて、今度は復路を向かうというお話になります。そこでお釈迦様がいうには、往路は歩いてこさせてしまったが、復路は孫悟空の雲に乗って帰るがいいと言ったんです。孫悟空や他の弟子は喜びましたが、三蔵法師は疑っていました。お釈迦様がそんなことをいうわけがないということでですね」
「やはり、その天竺は偽物だったんですか?」
「ええ、そこは妖怪が作った偽の天竺で、一行を安心させたうえで捉えて、後は食べてしまおうとしたんですね」
慎吾はさらに続ける。
「実際に騙されたことを知った孫悟空が魔物を退治することで一件落着したんですが、彼らは自分たちの旅に疑問を感じるようにもなったようです。疑心暗鬼の中で旅をするというのも、ある意味ではお釈迦様が与えた試練なのかも知れないですね。僕はあのお話を見て、未知の世界というものがどれほど怖いものなのかということ、そして人間一度はその怖い未知の世界を乗り越えなければいけない試練として味合うものなんだって感じました」
「なるほど、この二つのお話を聞いただけで、おとぎ話のような話も、心理学的にも物理学的にも奥が深いものではないかと感じました。日本のおとぎ話などは、結構そういうイメージのお話多いかも知れませんね。ただ、お釈迦様のような絶対的な登場人物がいない場合が多い日本のおとぎ話ですが、逆にいうと、絶対的な登場人物がいないほど、余計に奥が深いような気がします」
と永遠は言った。
「どうしてですか?」
と慎吾が聞くと、
「だって、絶対的な存在がないということは、何が正解なのかって証明できる人がいないということでしょう? それをいかにして教訓のように書き残せるかということが大きな課題になっているんじゃないでしょうか?」
永遠は、慎吾の話を聞いて、自分なりに理解しながら想像を膨らませているかのようだった。
「人間がいくら偉くなろうが、神や仏になれるわけではない。しかも神や仏というのはその存在は人それぞれの心の中にあって、それぞれ違っているものであるに違いないんですよ。そう思うと、架空の話は誰にでも想像できる。そしてその可能性は一人の人に無限にあると考えると、その中の突飛な発想も、中には実際に起こってもおかしくないことが含まれているように思えてならないんですよ」
慎吾の発想は永遠が考えていることを代弁しているようだったが、実際に永遠が感じていることと微妙に違っていた。
永遠はそのことを分かっているつもりだったが、違っていてもそれはそれでいいと感じたのだ。
相手に分かってもらいたいと思って話をしているつもりでも、実際には自分で理解したいという思いが強いのかも知れない。人というのは、それほど自分の発想に自信を持つことができないのだろう。だから、おとぎ話のようなものでフィクションを作り上げ、人それぞれに微妙に違う発想を抱かせることで、それぞれがコミュニケーションを交わせるというものではないだろうか。
「今度のおとぎ話のお話楽しみですわ」
と永遠がいうと、
「僕もなんですよ。永遠さんとお話をしていると、その教授の話を思い出します。僕がこうやってお話ができているのも、ひょっとすると先生のお話を想像できているからなんじゃないかって思うんです」