悪循環の矛盾
「その人が言うには、その方が描きやすいって言ったんです。どうしてなのかって聞くと、忠実に描こうとすると、絵をバランス重視に描こうと思ってしまうらしいんです。でも、点で描きながらそれを線にするようにするには、パーツパーツを個別なもののように描くのがいいんだって言ってました。その時に、そんなことをすれば充実に描けないのでは? と聞いてみると、そんなことはないっていうんですよ。目の前に写っていることが本当のことだと誰が言えるかってね。少しでも時間が経てば、微妙に変化が見られる。忠実に描こうとするには、一瞬で描いてしまわないかぎり不可能なことだってですね」
「なるほど」
「それでいろいろと考えを巡らせたうえで辿り着いた結論が、目の前の情景を忠実に描くのではなく、省略できるところは大胆に省略してもいいんだってですね」
「それも一つの考え方ですね。僕もあなたの意見には賛成ですが、僕が大胆な省略を考えたのは少し違っているんです」
「というと?」
「僕がさっき次元の話をしましたよね? それが一つのヒントになったんです」
またしても不思議な言い回しだ。
しかし、さっきの話と結びつけて話すところは彼の一種に話法の特徴なのかも知れない。それを思うと、真面目に聞いてみようと思った。
「さっき、鏡の話をした時、忠実に描き出されているのは、上位の次元に対して絶対的なものだって言いましたよね? それが鏡の世界の宿命だって」
「ええ」
「でもそれはあくまでも鏡の世界だけのことで、絵画や写真の世界では、決してその必要はない。省略して写し出すことは可能なんですよ。自由に描けるのが芸術の基本ですからね」
「ええ、でも絵画はそれができても、写真には無理なんじゃないですか?」
「そんなことはありません。例えば、光の加減で見えているはずのものでも閃光のせいで見ることができないこともある。僕が写真を撮るようになったのは、そういう忠実に写し出すはずのものをいかに省略して写し出すことができるかということなんですよ」
「そうなんですね。でも、それは省略が前提で、違うものを写し出すことを目指しているわけではないんですよね?」
「そうです。ないものをいかにもあるかのように写し出すことは、僕にとっては冒涜だと思っています。だから大胆な省略が写真の醍醐味だと思っています」
「難しいお話ですね」
「そう思います。次元のお話が出たので、こんなお話をしてしまいましたが、先ほどの話を聞いていて、時間の感覚というのが永遠さんの深層心理を抉るかのような何かを捉えているように思えたからですね。僕にも同じような感覚があります。だから、写真や絵のお話に結び付けてみたんです」
慎吾はそう言って、目の前のコーヒーを口に含み、半分くらい飲み干した。
よほど喉が渇いていたのか、今度はコップのお冷に手を掛けて、そのお冷を一気に飲み干した。
「すみません、お冷」
と言って、間髪入れずにウエイトレスの女性に声を掛けた。
永遠は彼のその様子を見て、
――この人は、真面目に話をすることのできる人なんだ――
と感じた。
難しい話を諭すようにまくし立てていると思ったが、いったん落ち着いてみると、思ったよりも冷静に話をしてくれたように感じた。
――この人とは、男女の関係というよりも、お友達としてなら、ずっと仲良くしていきたい人だわ――
と感じた。
好感を持ったのは間違いないが、それ以上の感覚に発展するかどうか、今の段階では微妙なことだと思うのだった。
「僕が絵を描くのをやめて写真を撮るようになったのには、もう一つ理由があるんですよ」
と、今度は少ししみじみと慎吾が話し始めた。
「どういうことですか?」
「あれは、僕が絵を描いている時、ある美術館に行った時のことなんです。絵を描いていると美術館に行きたくなるのも無理のないことでしょう?」
「ええ、そうですね」
美術館の絵と自分の作品を見比べるなどという大それた考えではないが、少しでもプロの絵に近づきたいと思うのは、自分だけではなく、絵を描いている人が皆同じことを考えているのではないかと思った。
「その時、ある絵を見たんですが、その絵に見覚えがあるという気がしたんです」
「どんな絵だったんですか?」
「確か風景画で、手前には大きな川が流れていて、奥には山が見えました。山と言っても小高い丘と言った方がいいくらいのところで、その麓にお城があったんです」
「どんなお城なんですか?」
「お城と言っても日本の城ではなく、西洋の城なんですよ。中央にはまるで大きな鉛筆でも突き立てたかのような城だったんですが、その絵を見ていると、どんどん自分が引き付けられるような気がしてきたんです」
「その絵に見覚えがあった?」
「ええ、でもいつどこで見たものなのかまったく覚えていなかったんです。どこで見たのかということを思い出そうとしていると、次第にその絵に自分が本当に引き込まれていくような気がしてきて、そこからどんどんズームアップしていって、今度はその城を自分が真上から見ているような錯覚に捉われたんです」
「ひょっとして、以前に見たと思ったのは、そのズームアップした絵だったんじゃないですか?」
と永遠がいうと、
「ええ、その通りなんです。城の上から見ている光景を想像していると、これこそ前に見たことのある絵だって思えてきたんです」
「あとから感じる本当のことを、最初に感じてしまったということでしょうか?」
「状況を額面通りに表現すればそういうことなんでしょうけど、僕には少し違うイメージがあったんですね」
「それはどういうイメージですか?」
と永遠が聞くと、
「イメージというよりも、記憶がよみがえってきたというべきなのか、実際に見ている絵は遠くから城を見ている光景でしたからね。だから、よみがえってきた記憶をハッキリさせようという意識の元、ズームアップに繋がったんじゃないかって思うんですよ」
分かるような分からない漠然とした話だった。
慎吾は話を続けた。
「その絵の中に誰かがいたような気がしたんです。小さくて分からなかったんですが、よく見てみると、相手もこっちを見上げていて、目線は最初から合っていたような気がします」
「それで?」
「そこまで来ると、記憶が途切れてしまうんですが、何か後ろから声を掛けられた気がするんです。何て声を掛けられたのか覚えていないんですが、その言葉に振り返ったところで記憶は途切れています」
「それは本当に絵だったんでしょうかね? 夢だったということは?」
と永遠がいうと、
「そうだったのかも知れないんですが、夢だったのだとすれば、記憶がよみがえってきた時に、それが夢の中だったということを意識するものではないかと思うんです。それがないということは……」
「夢ではなかったと?」
「ええ、そういうことです」
永遠は彼が何を言いたいのか、思案していた。
「実は僕、箱庭療法を受けていたんです」
「箱庭療法?」
「ええ、心理療法の一つなんですが、箱庭の中に何を置くかによってその人の深層心理をあぶり出すというものです」
永遠も箱庭療法というものがあるということは知っていたが、詳しくは知るわけではなかった。