短編集67(過去作品)
安堵の気持ちとともに、力が抜けていき、歳も若返っていた。そう、夢を見ている今の年齢に戻っていたのだ。
「佐智子」
声を掛けると振り返った佐智子の顔を見て、私はゾッとした。私が期待している笑顔なのだが、どこかが違う。次の瞬間の言葉が想像できるほどだった。
「あなたを待っていたけど、あなたは私が望んだような人生を歩んでくれない人です。もう私はあなたを待っていることはできません」
と言って、踵を返して歩き始めた。その横におぼろげに見える男性の姿、これが佐智子の望む男性なのか。後ろ姿は私であるが、その男性を見た瞬間。また私は一気に歳を取ってしまった。佐智子の相手は今の私。では、夢を見ているこの私はいったい誰なのであろうか?
そう感じてくると、目が覚めていた。汗をグッショリと掻いていて、気が付けば佐智子は布団の中にはいなかった。これ以上の怖い夢を見たという記憶はない。普段であれば夢から覚める感覚は覚えていないのに、その日は覚えているという実に稀なケースだったのだ。
キッチンから香ばしい匂いがしてきた。タマゴにバターの匂い、今までよりもハッキリと感じられたのが印象的だった。
起きていくと、佐智子の後姿が見えた。いつもよりも少し小さめであったが、普段と変わらない姿に安心して洗面所に行った。
前の日の新聞を思い出していた。新聞記事に目を落とす私に、
「最近、嫌なニュースが多いわね」
と言った佐智子だったが、この間、二人が知り合った馴染みの喫茶店が店じまいをするということを聞いた時、思ったよりも寂しそうな顔をしなかった時を思い出していた。
佐智子には二面性があり、必要以上に感情深い時があるが、そんな時は神経質なことが多い。寛恕的になり、いきなり泣き出したり怒り出したりと、手がつけられなくなる。
そんな時の佐智子を怖く感じるが、私との相性からか、意外と私の言葉ですぐに冷静になってくれる。夫冥利に尽きるというべきだろう。
逆に、何かに怯え、私に何かを訴えたいと思っている時がある。却ってそんな時の方が何を話していいか分からない。放っておくしかないのだが、放っておくと翌日には忘れてしまっているようなのだが、私にはホッとした気分に、どうしてもなれないでいる。
何かに怯えているということは、私に助けてほしいという気持ちが強く、それに答えてあげられない以上、佐智子にとって私は他人のように思われているに違いない。
一番頼りにしている人が他人に思えるのだから、これほど寂しいものはない。心の奥にトラウマとして残ってしまい、蓄積していないかと時々不安になる。私にとっての佐智子も佐智子にとっての私も同じくらいの深い気持ちだと思っている。それが時々崩れるのであるから、本当はこの時の方が、私にとっては怖いのかも知れない。
この二つの性格は、結婚してから感じたものだ。確かにこんなはずではなかったと思ってはいるが、それ以上に、四年も付き合っていて、佐智子の気持ちのどこまでを知っていたのかと思うと、それが佐智子に対しての愛情とあいまって、私を不安にさせるのであった。
馴染みの喫茶店で佐智子が私と最初に話をした時、少し落ち込んでいた。どうやら失恋したすぐ後だったようで、誰かに頼りたいという気持ちが強かったようだ。目の前に現れた男性に心を許すという構図に私は満足したのだが、果たしてそれでよかったのかと、後になって考えた。まるで火事場泥棒ではないかと。
しかし、それは私の考えすぎで、そこが私の悪いところなのかも知れない。何も遠慮することなどないと考えることで、佐智子に対して自分を十分に出せ、そんな私を佐智子も気に入ってくれたのだ。佐智子が頼りにしているのはこの私、期待に答えなければならないという気持ちが結婚してからプレッシャーになってしまっている。
付き合い始めてから結婚までは順風満帆だったと言えよう。そのわりに私の中で幸せだという意識が少し薄らいでいた。あまりにも幸せだと自分がどこにいるのか見失ってしまうのではないかと思う。その時に感じたのが、自分がすぐに年を取ってしまうのではないかということだった。
佐智子と突きあっている時に確かに幸せを感じていた。幸せすぎるとも思っていたが、好事魔多しというではないか、心配性な私らしいのだが、ただ漠然と心配をしているだけではなかった。
――何かが足りないんだ――
そう思ってはみたものの、何が足りないかは分かっていない。学生時代には幸せというよりも将来ばかり夢見ていたのに、夢を見る焦点が漠然としていて、何を夢見ていいのかがつかめなかった。しかも、時間も自由に使えて、束縛も受けることはない。すべて自由に包まれた生活だっただけに、自分で制御しないと、誰もしてくれない。それまでの人生とは違っているのに、自由のありがたさや、自由の中での選択の難しさをどこまで分かっていたか、要するに時間という自由に流されていたのではないだろうか。
何とか就職もでき、卒業もできた。これは幸運だったというべきなのだろうが、初めて人生で焦った時期でもあった。大学受験の時とは違う。あの時はまわりも自分も追い詰められることで、知らず知らずに力が発揮できていたのだろうが、大学で知ってしまった自由の中では追い詰められて発揮する力を意識してしまった。
人間、意識してしまうと、なかなか前へは進めないもの。それを感じた一年間であった。その思いがトラウマとなって自分の中に残っている。
今でも学生時代の夢を見るのは、その時のトラウマが見せているのだろう。気が付けば置いていかれている。それはまわりからではなく、もう一人の、いや、本当の自分からであった。その証拠に夢では必ずもう一人の自分の後ろ姿を見ている。だから、学生時代の夢だと分かるのだ。
そんな時は覚めてからでも夢の内容を覚えている。夢を覚えているなどほとんどないはずなのに、トラウマが見せる夢だけは特別のようだ。
佐智子との付き合いは、学生時代のトラウマを思い出させることがあった。佐智子も私も大学を出ているのだが、初めて会った時に、どこかで見たことがあるようなと感じたのを覚えている。その感覚に嘘はなかった。本当にどこかで見ていたのかも知れない。特に人の顔を覚えるのが苦手な私は二、三度見ただけでは、なかなか覚えていない。よほどの特徴があるか、素振りに感じるものがあるかなどがあったに違いない。それが何かは思い出せないが、佐智子にも私に対して、どこかで見たことがあると思っているのを感じたことがあった。
それで、佐智子に直接尋ねてみたことがあった。
「どこで見たのかしら。ハッキリと覚えていないのよ。でもね、それも本当にあなたなのかと言われるとハッキリと、そうだって言えない気がするの」
奥歯にモノの挟まったような言い方である。それだからこそ、今まで私にそのことを言わなかったのかも知れない。
「どうしてなんだい?」
「今ならハッキリと言える気がするんですよ。でも、それは今のあなたを知っているからじゃないかって思うんですよね。だから、もし見たとするならば、今のあなたに近い人を見たと言った方が正解なのかも知れないわね」
作品名:短編集67(過去作品) 作家名:森本晃次