短編集67(過去作品)
本能と知性
本能と知性
「最近、嫌なニュースが多いわね」
妻の佐智子の声が背中から聞こえてきた。朝の目覚めのこの時間、新聞を読みながらトーストをかじる姿はどこの家庭にも見られるだろう。私も朝食と新聞、どちらに集中するということもなく佇んでいると、きっとあまり褒められた格好ではないに違いない。
結婚して三年、そろそろ新婚という時期は通り過ぎていた。私はまだまだ新婚のつもりでいるが佐智子はどうだろう。元々、甘えん坊の私は今でも佐智子に甘えているのだが、時々、サラリと受け流されているのではないかと思えることがある。三年も経てば佐智子にも私の操縦法が分かっているようだ。
朝日が当たるリビングは、さすがに夏は暑くてカーテンを半分閉めているが、時候がよくなると、カーテンを全開にする。朝起きて新聞を優美抜けから持ってきて、読む前にまず両手を広げて背伸びするのがいつの間にか日課になっていた。
背伸びをすると涙が出る。あくびをするのと同じ現象である。思い切り朝の空気を吸い込み吐き出すことで、一瞬立ちくらみを起こしそうになるが、吐き出すにしたがって、スーッとしてくる気分は、朝の目覚めには必須であった。
そんな私の後ろ姿をキッチンで料理しながら、佐智子は見つめている。考えてみれば、佐智子は結構私の後ろ姿ばかりを見ているような気がする。あまり面と向かわなくなったことが、新婚時代とは一番違うところだ。そのことを一番察知しているのが、佐智子なのかも知れない。
交際期間は四年と、結構長い方だった。長すぎる春はなかなか成就しないという話を聞いたことがあるが、私と佐智子の場合には当てはまらなかった。収まるはずのさやにやっぱり収まったというべきか、傍から見ている分にはあまり話題になる二人ではなかった。
だが、ただ長かっただけだとは私は思わない。その時々は長く感じていて、後から思うとあっという間だったように感じる。そういう感じ方をする時というのは、密度の濃い付き合いだったからだと私は思っている。
佐智子とも新婚当初、そんな話になったことがあるが、甘い空気に包まれての話だったこともあって、お互いに最後はほのぼのとした顔になり、軽く流した会話に時間が流れ、後で思い出しても、どんな話だったのか、ハッキリとしなかった。
新婚当初、真新しいと思っていた家具も、気が付けば気にもならなくなった。さすがに毎日佐智子が掃除をしてくれているので、埃が浮いているようなことはない。私と違って佐智子は潔癖症であり、時々口うるさいところもあるが、いい加減なところがある私とではそれくらいがちょうどいいのだろう。
ただ、私は神経質なところがある。しかも他の人とは少しピントがずれているらしく、気にしなければならないところを気にしないくせに、どうでもいいことを気にして場を白けさせてしまうことも学生時代にはあった。さすがに最近は注意しているが、それでもハッと思うことがある。顔が真っ赤になってしまうが、まわりの人は気づいているだろうか。
朝から新聞を読むのは、仕事上どうしても仕方がないからで、最初は嫌々だった。新聞を読む時間があれば、ゆっくり寝ていたいというのが真実で、この気持ちは私だけではないだろう。
そんな私を妻はどんな思いで見ているのだろうか? 家事にしても決して嫌な顔一つもせずにニコヤカにこなしている。私と目が合えば、必ず笑顔を返してくれる。その笑顔にどれほど癒されたことであろうか。
――結婚して本当によかった――
この気持ちは新婚の時から変わっていない。
結婚することで私は家庭を持った。暖かな家庭とともに責任も大きくなったのだろうが、新婚生活をしている間に、「責任」の二文字を感じたことはない。それは今も同じであって、いまだに新婚気分が抜けきれないのは、責任を肌で感じることがないからであろう。
毎日の生活は確かに変わった。元々、一人暮らしで、何でも一人でこなさなければならなかった頃に比べれば、どれほど楽なことだろう。
だが、その間に、佐智子とは交際をしていた。いずれ結婚するだろうと思うようになったのは、交際二年目くらいからで、本当はすぐにでも結婚してもよかったのだが、佐智子の姉がまだ結婚していないということもあって、佐智子が結婚という言葉を口にしなかったからだ。
交際四年目にして、やっと佐智子の姉の結婚が決まり、順番的に佐智子にも回ってきたわけだが、佐智子の家は代々女系家族らしく、結婚の順番に関しては厳格だということだった。いまどきそんな家族があるなんて信じられないが、どうしても家を出ていくことの多い女系家族には、それなりのルールが存在しているらしい。
そのせいもあってか、佐智子は私に逆らうことはほとんどなかった。いつも一歩下がって三行半、まずは自分のことよりも相手の気持ちを考える本当に優しい性格なのだ。裏を返せば、それだけ男性に尽くす教育を受けてきたのか、それとも姉妹関係の中で年上の姉には逆らえないという気持ちでずっと過ごしてきたのか、目上の人に対しての礼儀や態度は他の女性にはないものだった。
他の男性なら、何年も付き合っていれば、あまりにも従順な女性であれば、どこか疑ってみる気持ちが芽生えるかも知れない。しかし、私にはそんな気持ちはまったくない。人を疑うことは罪悪だという教育を受けてきた。そのせいで、すぐに騙されるという悪い面も出てきた。
大学の時に友達からお金を貸してほしいと言われ、貸したことがあった。仲のいい友達なので、催促をすることもなくいると、相手も図に乗ってか、返済について口をつぐんでしまった。返済したくないからか、次第に私と距離を置くようになり、関係もギクシャクしてきた。
一度催促してみると、逆切れされた。なかなか催促もせずに一年以上も経ってしまっていたので、なぜ今頃になっていうのかということを指摘された。こちらがビックリしてたじろいでいると、相手はこの時とばかりにまくしたてる。関係がぎこちなくなっているだけに余計に激しかった。
もはや友情など存在しない。あるのは憎悪と捻じれた関係だけだ。私にとっては青天の霹靂、正しいことが何なのか分からなくなっていた。トラウマとなって残ってしまい、一時期人も信じられなくなった。お金は返ってこない。友達は失う。まったくいいことなかったのである。
それを思い出すことで、人を疑うことができない自分が臆病であることを思い知らされた。確かに臆病であるが、これももって生まれた性格だと割り切ってしまえば、それほど気になることもない。むしろ人を疑わないことが優しさだと思うようになった。それが臆病を隠すためのいいわけだということに自分でも気づいていなかった。
佐智子と知り合った時の私は、実は友人を失ったばかりの時だった。例のお金を貸して返さない友達を失ったちょうどその時に佐智子が私の前に現れたのだ。
知り合ったのは、馴染みの喫茶店でだった。二人とも常連になっていたが、お互いに意識することはなかった。といっても、私が女性に興味がなかったわけではない。彼女がほしいと思っていた頃だったのだが、佐智子も常連客だということは知っていた。
作品名:短編集67(過去作品) 作家名:森本晃次