短編集67(過去作品)
その言葉がただの驚きに過ぎないことはすぐに佐奈子には分かったかも知れない。そして、理恵子が女王様気分に陥っていることも分かっている。逆にそれは佐奈子にしか分からない感覚で、理恵子にはその時の佐奈子の驚いた表情は実に意外に感じられたのだ。
意外ということが何を意味するのか分からなかったが、唯一桜井と別れる気持ちにさせてくれた時期があったとすれば、その瞬間だっただろう、そういう意味では佐奈子に感謝しなければならない。だが、その時はまだ理恵子には何も分かっていなかったのだ。
桜井にとって、唯一の誤算は、佐奈子の存在だった。いや、佐奈子が理恵子のそばにいることで、理恵子の中に存在価値を見出したのを、桜井も分からなかった。
理恵子には桜井の考えているような存在価値などどこにもない。ただ雰囲気があるだけだったのだが、その雰囲気は、理恵子の後ろで見え隠れしている佐奈子の存在が、まるで障子に映った影のように蠢いていただけなのだ。
桜井もようやくそのことに気が付いた。それは、理恵子が佐奈子の意外な表情で我に返ったからである。
理恵子の有頂天な気分はどんどん冷めていく。冷めていくと、それまで自分が一体何を考えていたのかすら分からなくなってくる。
少し鬱状態に陥ってきた。
鬱状態は桜井を遠ざけ、佐奈子すら遠ざけるものであった。佐奈子には分かっているが、桜井には分からない。利用価値がないと分かった上に、鬱状態に陥られたのでは、もう理恵子と別れるしかなかった。
理恵子も感じていたが、相手から別れを告げられるのは癪だった。理恵子が別れを切り出すと、桜井は逆切れした。悪口雑言を並び立て、あることないことが理恵子に襲いかかる。
理恵子はそれを冷めた目で聞いた。鬱に陥りそうな自分だったので、理恵子を覆っている殻に当たって弾け飛んでいる。
――所詮、こんな男だったのね――
その時に浮かんできたのは佐奈子の顔だった。
佐奈子が笑っている。笑い顔など見たことないはずだったのに、あどけない笑顔が浮かんでいる。だが、それは前から知っている顔に見えて仕方がなかった。それが佐奈子の本当の顔ではないかと思うほどだったのだ。
理恵子は桜井がすぐに別れを言いだすのではないかと思った。それはそれで仕方のないことで、別に桜井だけが男ではない。もっといい人が理恵子のまわりにもいるはずだ。
そう思っていても、心のどこかで未練がある。未練を持つことで、物欲しそうな顔になってしまうのは避けたかった。それだけに、毅然とした態度が望まれるのだが、なかなかそうもいかない。よく言えば正直なのだ。
だが、なかなか桜井からは別れを切り出す気配はない。思い余って、
「私のどこがいいの?」
と聞いてみると、桜井は複雑な表情になり、
「それを言われると、何て答えたらいいんだろうって思うんだ。俺だって、今までに何人かの女性と付き合ったけど、その質問に対してはすぐに答えが出せたんだ。でも、君に対しては、答えがすぐには出てこない。まるで答えを出すのがもったいないような気分なんだよ」
彼のことをまったく疑うことのない人が聞けば、何ともくすぐったいような嬉しい言葉であろう。しかし、彼の複雑な表情が物語っているように、理恵子も同じように複雑な表情になっていることだろう。
理恵子は、人の影響を受けやすいタイプであった。
今までにも人の話を聞いて、それが正しいことではないかも知れないと思いながらも影響を受けていたことが多かった。初めて見たものが信じられないものだとしても、信じてしまうことも往々にしてあったのだ。
野性的なところがあるというのだろうか、一番最初に見たものを親だと思う動物がいるが、理恵子にはそういう感覚に近いものがあるのだった。
理恵子は桜井に対しての見方が変わってきた。最初は優しい男性だと思っていたが、自分が利用されていると思うと、相手から別れを言い出させて、自分を悲劇のヒロインに仕立てたいという気持ちになった。
裏切られた自分をいかに正当化するかを考えると、それが一番いいと思ったのだ。裏切られるよりも嫌われて別れると思う方が、自分の中で納得がいくと思ったからだ。
実際に嫌われて別れるというのも、あっさりしすぎて物足りなさを感じた。自分を悲劇のヒロインに仕立てるのであれば、嫌われたというよりも裏切られたと思わせる方が納得がいくからだった。
まわりに知られたくないという思いが強いくせに、いつも、
――まわりから見ればどのように見えるのだろう?
そればかりを考えているのかも知れない。
一つのことばかり考えていると、何も見えなくなるはずの理恵子だったが、冷静に考えていると、視野を広げることができる。それが理恵子のいいところでもあるのだが、考えすぎるところもあって、却ってまわりからどのように見られているかということを考えるのも、自戒の意味を込めていいことなのかも知れない。
実は、ものを捨てることにいつも躊躇するタイプであった。女のくせに整理整頓が苦手なところがあるのは、ものを捨てることに戸惑ってしまうからだということに最近になってやっと気づいた。
ものを捨てられないから、いるものといらないものの区別がつかずに、整理整頓ができないまま、ものだけが溜まっていく。それが性格にも表れていて、人から、
「あなたって諦めが悪いわね」
と言われるゆえんであった。
諦めが悪いというのと、ものを捨てられないというのは若干意味が違っているが、理恵子の中では同じものの感覚であった。その対象が人間であっても同じで、特に男となると、難しいものであった。
男性を違う生き物のように見ているからなのかも知れない。男性というものをまだ知らない理恵子にとって男性は、
――捨てられないもの――
なのかも知れない。
捨てられないもの、つまり、貴重品なのか、それとも自分にとって本当に必要なものなのか判断できないものの一つのように思えてしまう。
時に寂しさが込みあげてくる時、それは鬱状態に陥る時のように、前もって寂しさがやってくることを感じるものである。
しかも、寂しさは徐々にではあるが、次第にこみあげてくるもので、それは自然現象のようでもあった。
――無意識な成長は自然現象を思わせる――
そんな思いが頭をもたげ、男性の暖かさを求めるのもすべて自然現象のように思えた。
元々本能というのは自然現象のようなものではないだろうか。自然現象は時として想像もつかないダイナミックな現象を見せてくれることがある。本能も、本人の考えどおりになるとは限らない時も往々にしてあるのではないだろうか。
桜井が別れはなかなか別れを切り出すこともなく煮え切らない状態に我慢ができなくなった理恵子は、ついに自分から別れを切り出した。初めて捨てられないものを捨てた気分になったのだ。
作品名:短編集67(過去作品) 作家名:森本晃次