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短編集67(過去作品)

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 今までに佐奈子が隠そうとしていることを教えてくれることはなかった。敢えて聞かなかったし、聞いても教えてくれるはずなどないと考えていたからだ。それなのに、今度は話してくれないようなことを教えてくれようとしている。隠すつもりではないことを教えてくれるのだろうが、理恵子にとっては同じだった。
 旅行の計画を立てた佐奈子は、最初から目的は行ってみたいところだったのではないかと思えてきた。その場所が佐奈子にとってどんな場所なのか間もなく分かると思うと、ドキドキしてくる理恵子だった。
 朝起きてすぐ温泉に入り直した。佐奈子を誘ったのだが、朝風呂には入らないということだったので、一人で露天風呂に向かった。夜に見る光景とはまた違い、緑の鮮明さが目に焼き付いたようだった。
 綺麗な緑は昨夜の照明に彩られた作られた光景ではなく、あくまでも自然である。目立たないが自然の息吹を感じるというのは、まさしくこのことであった。
 朝日が緑の森を掻き分けるように差し込んでくる。差し込んできた日差しの強さに、思わず目をそらしてしまったが、光の強さは朝露によって濡れている木々の間から差し込んでくる光であることにすぐに気づいた。
 これもまさに自然が作り出した幻想。佐奈子にも見てほしかったのだが、仕方がない。確かに朝露が出るくらいなので、冷えているのだろう。意外と佐奈子の身体がデリケートにできているんだということを感じたのだった。
 露天風呂から上がってみると、すでに朝食の用意はできていた。朝風呂に入っての朝食というのは、温泉ならではである。リフレッシュした気分に再び陥った理恵子は、普段気持ち悪くて食べられない朝食を、いくらでも食べられそうな気がしてくるくらいだった。
 気分はすでに有頂天になっていた。まるで何も知らない幼女のように、はしゃいでいる自分に気づいた。しかし、なぜかはしゃいだ気持ちは表に出ることはなかった。目の前に鎮座している佐奈子があまり楽しそうにしていないからだ。
 佐奈子の様子が変なことをすぐには分からなかった。むしろ、
――はしゃいでいるはずの自分の気持ちが表に出ないのはなぜだろう?
 という気持ちが先にあって、それを考えることで初めて佐奈子が楽しそうでないことに気が付いたのだ。
 佐奈子の表情は冷めていた。元々朝機嫌が悪い人もいるが、佐奈子の部屋に今までに何度も泊まったことのある理恵子には信じられない光景だった。
 佐奈子は低血圧というわけではなく、朝が弱いわけでもない。温泉に誘って行かないと言われた時からおかしいと思ったのだが、どこか雰囲気的におかしいのだ。
 食事中も食べることに集中しているのか、一言も話そうとしない。下を向き加減で、少し鬱が入っているのかも知れないと感じたが、せっかくの旅行中、いきなり鬱になられるのは困ったものであった。
 理恵子も必要以上に気を遣っていた。声を掛けることもできずに、上目遣いで見つめている。
 見つめられているのを分かっているはずなのに、それに対して一切の反応を示さない。何か思いつめているようにも思えるくらいだ。今日のこれからの予定を考えると、気が重くなってしまう理恵子だった。
 だが、それは思い過ごしだったようだ。食事が終わると、服に着替えている佐奈子の様子はいつもの佐奈子に戻っているかのようにテキパキとしていた。鬱状態に陥った時の佐奈子は、身体にだるさが感じられ、すべてが億劫に見えるからだった。
 佐奈子が鬱状態の時は話しかけない方がいい。それは他の人でも同じだが、他の人と違うのは、その時の佐奈子は、瞑想に耽っているからだ。
 他の人であれば、鬱状態というと、自分が何をしているのか分かっている。分かっているからこそ、他の人に話しかけられたくないと思うのだ。それは理恵子が鬱状態に陥るときも同じで、陥ったら最後、自分に殻を作り、人との関係を一切遮断してしまいたくなるのだ。
 話しかけられたこともあったが、無視していた。相手は鬱状態になるという感覚がないため、相手がブスッとしてしまうと、余計に嫌われたくないと思い、愛想を振りまいてくる。
 それがとても鼻につくのに相手には分からない。悔しくて睨み返すが、相手は懲りずに微笑み返してくる。
 平行線が交わらないのと同じで、お互いに意地の張り合いをしていてはどうなるものではない。こちらが普通の状態であれば、折れることもあるのだが、まず鬱状態の時にこちらから折れることはない。なぜなら、気持ちに余裕がないからだ。
 しかし、佐奈子の場合は違う。鬱状態になっていても、どこか表情には余裕が感じられる。無表情というわけではないのに、どこか余裕があるのだ。
 余裕がある顔を見ていると、こちらも自然と笑顔になるのだが、それがいけないのだ。
 佐奈子の表情に余裕が見られると、鬱の状態から去ったのかと思ったが、実際には違っていた。
「何よ。あなたその顔は」
 口は確かにそう呟いているのだが、声になっていない。本人は声を出しているつもりのようだが、声になっていないということは、それだけ重症だということでもある。
 佐奈子が理恵子を見る目、今までにも幾種類も感じてきたが、余裕のある顔を示している時ほど怖いものはない。そんな時には話しかけてはいけないのだった。
 余裕があるということは、本人にはきっと分かっていない。だから、後になってそのことに触れてもいけないのだ。一度、彼女が正常に戻ってからそのことについて話をしたが、口では、
「何言ってるの。私そんな変なことなんてないわよ」
 と笑っていても、次第に顔がまた余裕のある顔に戻りつつあった。瞑想に入りかけている証拠だった。
 そんな時には、話題をそらして何とか瞑想に入らせないようにしないといけない。その時は必死だったので、どのようにしたのか覚えていないが、何とか収まってくれてホッとしたものだ。
 だから、それからはしっかりと状況を判断できるようになった。もちろん、これは佐奈子が相手の時だけであって他の人には通用しない。理恵子に対して他の人がしても通用しないだろう。ただ、覚えていないのだからどうしようもない。要するに、余裕のある顔にしないようにするには、鬱状態になった時は話しかけないことである。
 その場にいないのも手であった。
 佐奈子の余裕のある顔は、一時間も放っておけば元に戻る。理恵子は、テレビをつけておいて、ロビーに土産物を見に行くことにした。テレビをつけておくのも一つの手で、あまり静かすぎない方が、佐奈子を元に戻す時間が短いということが分かっている。
 ロビーには近くの漁村や農地で取れた新鮮な野菜や魚が並んでいたのを昨日のうちからチェックしていたのだった。
 前の日は理恵子たち二人を含めて、もう一組あったと聞いている。ひょっとしてロビーにいるかも知れないと感じたのは、佐奈子を一人にすることで、自分が一人になるということを実感したからであった。
作品名:短編集67(過去作品) 作家名:森本晃次