負のスパイラル
さらに蓮には人との競争心が人一倍だという性格があった。そんな性格は分かる人には分かるというもので、競争の標的にされた相手は、さぞや気分の悪いものであろう。普段のあどけなさなどまったく感じさせることなく、露骨に闘争心をむき出しにしてくる蓮の態度に、あざとさを感じるのも無理のないことであろう。
中学に入学すると、蓮は有頂天だった。自分の力で自分の目標を初めて達成したという思いが強く、自己満足の頂点にいたと言ってもいい。しかも蓮が目指した学校は、担任の先生からも、
「お前の成績だったら、五分五分くらいかも知れないぞ。もっと無難なところに変えた方がいいんじゃないか?」
と言われたところだった。
蓮と睦月が目指した学校は算数の問題が難しいことで有名で、算数以外の成績がいい睦月の方が、全体的には上の蓮よりも、合格の可能性は高いと見られていたようだ。
実際に入学してみれば、成績が上だったのは睦月の方で、算数の成績は蓮が上だったが、他の科目では完全に睦月に差を付けられたのが尾を引いて、成績は睦月が上になってしまった。
それでも、さすが算数に長けた学校だけあって、成績のトップクラスの生徒のほとんどは、算数でもトップクラス。そんな猛者が集まってくるのだから、小学校の時の担任の先生から、
「五分五分だ。もっと無難なところを」
と言われたのも頷ける。
蓮は、それでも一年生までは、成績は中の上くらいだったのだが、二年生になってから、急に成績が落ちた。
原因は他の人には分からなかっただろう。別に遊んでいたわけでも、恋愛やクラブ活動に熱心だったわけでもない。一年生の時と同じような生活だったので、急に成績が落ちたことを、担任の先生も不思議に感じていた。
しかし、蓮には分かっていた。
原因は二つあった。
一つは、元々五分五分の成績で、中の上くらいの自分の位置に、ずっと疑問を抱いていたからであった。小学生の頃はトップクラス、特に算数に関しては誰にも負けないという自負すらあった。だが、試験で選抜されて入学してきた、いわゆる「猛者」が集まってきているのである。皆同じようにトップクラスだった人ばかりだろう。当たり前のことだと認識はしていたが、実際にその立場になると、うろたえてしまう。そんな自分が信じられなくなったことが、成績の下落を招いたのだ。
もう一つの原因は、算数が数学に変わったことであろう。
算数の頃は、
「算数というのは、どんな解き方でもいいから答えを導き出せばいいんだ。正解であることはもちろんのこと、その過程が大切なんだよ」
と言われてきたが、数学となると、今度は公式ありきであり、
「数学というのは、いかに数式に当て嵌めて、答えを導き出すかということが課題になってくる」
というものである。
それまでの考察系の学問から、暗記科目に変わってしまった。それを蓮は自分の中で受け入れられなくなっていた。
「公式を考えるのが算数だったのに」
と感じているが、せっかく考えて先生に発表し褒められたことも、過去の数学者に見切られた、使い古された公式だということを思い知らされると、急に勉強への意欲が萎えてしまったのだ。
「何か面白くない」
と、勝手に勉強を見切ってしまい、そうなると、成績がぐんぐん下がってくるのも頷けるというものだった。
睦月はそんな蓮の気持ちをどこまで分かっていたのか、それは睦月にしか分からないことだった。
蓮が勉強に対して疑心暗鬼になっていることを睦月は気付いていたのかも知れない。蓮は少なくともそう思っている。なぜなら、その頃から会話がうまくかみ合わなくなってきた。お互いのことを分かっているつもりでいた蓮とすれば、それまで一番分かり合えていた相手に話が通用しなくなると、一番分かり合えていた人が今度は一番やりにくい相手に変わってしまうことを意味しているのだ。
睦月は強情ではあったが、相手の気持ちを思い図ることのできる人だった。忖度したり気を遣ったりもしていたのだろうが、そんな素振りを相手に悟られることもなく、さりげなく接することが睦月の特徴でもあった。
だが、いつも蓮は、
「睦月に助けられている」
と考えるようになった。
その思いが蓮にある時は、二人の気持ちは噛み合っていた。お互いに相手の気付かないところに気付いて、お互いを補っている。そんな関係が親友として一番の関係ではないかと思っていたのだ。
二人の関係がいつ頃からぎこちなくなってきたのか、ハッキリとしたところは分かっていない。その証拠に先にぎこちないと考えたのは、蓮の方だった。睦月はかなり後になって感じたことであったが、それは別に睦月が無神経だったからだというわけではなかった。むしろお互いにぎこちなくなるということがどういうことなのかという線引きが、それぞれで違っていたということなのであろう。
だが、その原因が成績にあるということを、蓮はすぐには分からなかった。睦月は最初から蓮の成績が悪くなってから、蓮の態度が変わったことに気付いていた。しかし、成績が悪くなったくらいで二人のせっかくうまくいっていた関係が壊れてしまうなど、考えられなかったからである。
蓮はどちらかというと、競争相手がいないと燃えないタイプである。だから小学生の時の勉強は、まるでゲームを楽しんでいるかのような感覚で、そんな風に考えているのが自分だけだとも思っていた。
他人と同じでは嫌だと思っている蓮には、その考えが自分独自のものであることに誇りを持っていた。競争心も悪いことではない死、そのおかげで全体も向上するのだから、悪いことなどありえるがはずもないと思っていた。
蓮は塾に通い始めたきっかけもそのあたりにあるのではないかと自分では思っている。
元々、どうして塾に通いたくなったのかということの本当の理由を自分でも分かっていなかった。何となくではあるが理解していたと思ったのは、
「競争するのが好きだから」
と思うことで、自分を納得させようと思ったことが理由ではないかと思った。
自分を納得させる材料がない時は、その後に感じたことで一番ふさわしいものを後から充ててしまうというやり方を時々している。どうしてそんな風になったのかは分かっていないが、算数が好きな自分にはふさわしいと思うようになった。
算数が好きだと理屈っぽいと思われるかも知れないが、実はそうではない。理屈っぽくなるのは自分の考えに自信がないからで、自信があれば理屈をこねてまで、理由をハッキリさせようなどと思わないからだ。
「この世のことは、数字で表せないことなど何もない」
と考えは極端なのかも知れないが、蓮は超自然的なことをあまり信用していない。
たとえば、幽霊であったり妖怪であったりするような架空の存在を信じることはなかった。だから、友達が話しているホラーなどは、
「何を幼稚な」
と思っていた。
だが、それは自分が怖がりだからという思いを抱きたくないということへの反発でもあった。