負のスパイラル
もしそんな自分を呼び起こすことができる魔法があるとすれば、それを催眠術という形で表に出せるのではないかと思った。
――では、その催眠術を掛けているのは誰なの?
と考えると、絶えず自分の近くにいて、その存在が架空であるような人ではないかと思えてきた。
そうなると、やはり「五分前の女」であり、もう一人の自分、いや、本当の自分なのかも知れないと思った。
その時蓮は、間違いなく催眠術に掛かっていた。
蓮が目の前に自分を発見してからどれくらいの時間が掛かったのか、気が付けば自分が演台の上にいて、まわりから喝采を浴びていた。道化師は自分の斜め前に立っていて、観客に手を振ってパフォーマンスを演じていた。
その時、決してこちらを見ようとはしない。見たとしても表情は分からないのだから同じなのだろうが、最初と違って、顔をこちらに向けようとはしなかった。
観客に向かって手と頭を下げてお礼をしている。拍手喝さいを浴びる道化師を見て、
――その喝采は私にじゃないの?
と妬みにも似た感情もあったが、本音としては、
――何事もなく終わってよかった――
というものだった。
その時、自分を見つけた恐怖は、すでに沈静化されていたのだった。蓮がその時道化師から受けた催眠は、一体どういうものだったというのだろうか?
掛けた本人
蓮が祐樹と付き合い始めてからデートにこぎつけるまで、少し時間が掛かった。祐樹の方はオープンな付き合いを望んだが、蓮の方で少しオープンには躊躇があったからだ。
蓮の気持ちを分かっているのか、付き合い始めてから、祐樹の方からデートに誘うことはなかった。最初に一度だけ、
「今週の日曜日、どこかに行こうか?」
と、軽い気持ちで誘ったデートのつもりだった祐樹だったが、
「ああ、今度の日曜日ね。友達と約束があるの」
と、簡単にあしらわれてしまったことで、祐樹に対して、
――おや?
という疑心を抱かせた。
こういうことには聡いタイプの祐樹なので、蓮に対しては簡単にデートに誘えないものだと思うようになった。
その気持ちの奥にあるものが、
「私はあなたのようにはオープンになれない」
という思いだということに祐樹は気付いた。
誘わないことが蓮に気を遣っていることだと思うと、少し寂しい複雑な気持ちになったが、とりあえずは祐樹もそれでいいと思った。
しかし、付き合うということに対して躊躇も迷いもなかったはずの蓮なのに、付き合い始めてから急に躊躇するようになるというのもおかしなものだと祐樹は感じていた。
――僕の知っている蓮ちゃんとは違うような気がするな――
と祐樹は感じた。
祐樹は、どちらかというとネガティブ志向の方だった。蓮のように細かいことをあまり気にしない性格ではないので、却って彼女のように天真爛漫な性格に憧れているのだった。
細かいことを気にするのは祐樹の長所だと自分では思っていた。
「石橋を叩いて渡る」
ということわざがあるが、それを信条だと思っているくらいだった。
元々この性格は父親から受け継いだものだと思っている。子供の頃には自由に遊ばせてくれなかったことで不満もあったが、中学生になった頃から、そんな父親の気持ちが分かる気がしてきた。それはきっと自分が元々から堅実な性格であり、遺伝によるものだと感じたからだ。
「こんな遺伝、くそ喰らえだ」
と思うこともできたが、祐樹にはその思いを抱くことはできなかった。
祐樹は自分の運命から逃れられないという思いを中学に入った頃から抱くようになった。諦めの境地と言ってしまえばそれまでなのだが、諦めの境地というよりも、運命を受け入れるという言い方にすれば、自分を納得させられると思うようになった。
「物は言いよう」
とはよく言ったもので、簡単に受け入れることのできないことでも、考え方でどうにでもなるという理屈は頭の中で理解できるようになった。
しかし、実際の感覚とは差異があるのも仕方のないことで、それをいかに克服するかということを考えた時、
「僕のまわりに天真爛漫な人を置いておけば、僕も次第にその人の影響を受けて、ポジティブな考えができるようになるんじゃないか」
と思うようになった。
しかしなかなか天真爛漫な人というのは見つかるものではなかった。元々友達も多い方ではない祐樹は、
――自分のまわりに寄ってくる人というのは、しょせん似たような考え方の人だけなんだ――
と思うようになった。
その考えは間違いではなく、確かに似たような考えの人が寄ってくるからこそ、会話も弾むのだし、逆に違う考えの人との会話では、絶えずぎこちなくなり、気を遣わなければ会話が進まなくなるため、下手な会話でその場を持たせようとしてしまう。そんな状態が長く続くはずもなく、友達としてありなのかという疑問を感じると、やはり友達というのは似た者同士でないと成立しないものなのだと考えさせられてしまうのだった。
祐樹は、その頃まで異性を意識したことなどなかった。
――女の子は別の人種なんだ――
とまで思っていて、友達として見ることはできないと感じていた。
父親の頑固なところを見てきて育ったので、女の子に対しては軟弱なイメージしかなく、昔の男尊女卑に近い考えを抱いていたのかも知れない。
――学校では、男の子も女の子も平等だって習ったけど、信じていいんだろうか?
という思いすら感じたほどで、確かに女の子の態度を見ていると、家で母親が父親に対するような服従は感じられない。
むしろ男性の方が女性に気を遣っているという雰囲気だった。
――男子も女子も、そのことをどう思っているんだろう?
アンケートを取るわけにはいかないし、学校では男女平等を教えているので、生徒の方から男女平等の正否を問うようなマネはできるわけもなかった。
そんな時、祐樹が初めて興味を持った女の子が睦月だった。
睦月は、男子に対してまったく興味を持っておらず、いつもしかとしているようにさえ見受けられた。
当然、男の子からは評判も悪く、一緒にいる蓮にも同じような思いを抱いていたのだ。
祐樹がどうして睦月に興味を持ったのかというと、
――彼女には頑固なところがある――
というものだった。
自分と同じような頑固さがある女性というのを、祐樹は今までに見たことがなかった。
特に自分の母親などは父親に従順で、決して逆らうことのない、
――プライドをどこかに捨ててきたんじゃないか――
と思うような人で、
――何を楽しみに生きているんだろう?
とまで思わせる人だった。
だが、母親は決して辛そうな表情をしない。実際には辛かったのだろうが、そう思わせなかったのはきっと寂しそうな表情をしなかったからに違いない。
そう思ったことも、祐樹が女の子に興味を示さなかった理由の一つだ。
――僕のような性格の女の子がいるはずもない。ましてや父親ほどの頑固な人は、男を含めても、そうそういるものではない――
と思っていた。
そんな時に見つけたのが睦月だった。
見つけたと言っても、最初のきっかけは本当に偶然だった。
目の前で睦月は蓮にいろいろと指示をしていた。