負のスパイラル
と、睦月本人も、まわりの大人もそう思っていたようだが、なかなか離婚しない。
「離婚問題というのは切羽詰ってくると、却って離婚できないものなのかも知れないわね」
という人もいるくらいで、やはり本当のところは本人たちにしか分からないのだろう。
「夫婦喧嘩は犬も食わない」
と言われるが、まさしくその通りなのかも知れない。
睦月は意地っ張りなところがあり、弱みを人に見せたくないと思っていた。自分の親が離婚寸前なのだということを誰にも話していなかった。蓮に対してもそうだったし、特に他の人には知られたくないものだった。
それに離婚寸前だというのは睦月が勝手に思いこんでいることだった。確かに離婚寸前であることは間違いなかったが、睦月は火のないところに煙を立てることを嫌がる性格だった。
根拠のないことを言って、まわりを混乱させたくないという思いが彼女にはあり、混乱させることはいずれ自分に戻ってきて、ロクなことにはならないと思っていた。
そんな睦月だったが、蓮と一緒にいる時だけは素直になれるような気がした。彼女のあどけない仕草に元気印のその笑顔。どちらも自分にはない、羨ましいと思えることだったのだ。
睦月はまわりに気を遣っているつもりでも、実際には自分に対しての打算的な考えが根底にあることを分かっていた。分かりすぎるくらいに分かっているので、余計に苛立ちを覚える。それが余計に自分を卑屈にさせるという、
「負のスパイラル」
を描いていたのだ。
蓮というのは睦月にとって、無鉄砲に見えて、危なっかしいところがあった。最初はそんな蓮を守ってあげられるのは自分しかいないと思っていた。それが睦月が蓮と仲良くなった最初の理由だった。
だが、いつの間にか癒されていて、守られているのが自分だと気が付いた。それまでなかなか素直になれなかった睦月が自分の気持ちに素直になってみようと考えた最初だったのだ。
睦月という女の子は、
「石橋を叩いて渡る」:
ということわざが一番スッキリくるタイプの女の子だった。
「可愛げがない」
という人もいたが、それは女性よりも男性の方から見られることが多かった。
それを睦月は知っていた。知っていたが、それはそれでもいいと思っていた。なぜなら睦月の中に、
「自分は自分、他人は他人」
という思いがあったからで、それを植え付けられたのが両親の不仲からだというのも皮肉なものだった。
「親と言ったって、あそこまで私を無視して自分たちだけで喧嘩をしていれば、他人と同じだわ」
と思っていた。
確かに、小学生の頃から親は自分たちだけのことで精一杯で、睦月のことなど眼中になかった。学校行事にしても、両親が来てくれることはほとんどなく、父兄参観、運動会、学芸会など、まず学校に顔を出すことはなかった。
さすがに、先生との個別面談だけは来てくれたが、それでも、先生の前に座った母親は、終始つまらなそうにしていて、先生も困惑していたようだ。
「ひょっとして怒っていたのかも知れない」
とも思ったが、決して思い過ごしではなかっただろう。
学校では先生から、
「可哀そうな子」
だと思われていたように思っている。
睦月はそんな風に先生に思われている自分も嫌だった。つまりは、親を介して自分を見るまわりの目のすべてが嫌だったのだ。
睦月が学校に来なかった時期が少しだけあった。
同級生からの苛めに遭った時だったが、さすがに先生も心配になって家まで行ってみると、親から門前払いを食らっている先生を二階の自分の部屋から見ていた。
先生はその時、視線を感じて二階の窓を見てみると、そこには冷ややかな目で自分を見下ろす睦月の顔があった。
それを見た時、先生はゾッとしたようだ。
先生としても、睦月のそんな顔初めて見たと思っているし、あの状況で、どうして冷ややかな顔を浮かべられるのか信じられなかった。
「あの後、ニッコリ笑いそうで怖かった」
と先生は思っているが、その笑顔はまるで地獄の底から湧いてくるかのように感じられ、これ以上気持ち悪いものはないと思っていた。
それから先生は睦月に構うことを止めてしまった。
その様子を一人冷静に見ていたのが蓮だった。
蓮はまわりに対していつもポジティブでニコニコしているように見えているが、実は冷静な目でまわりを見ることができる才能を持っていた。しかもその才能は、まわりにそのことを看過させないというところで特記すべきことであろう。
「蓮って、二重人格なのかしらね」
と、言われたことがあったが、すぐにその話は立ち消えになった。
一瞬見せる冷静な目を見た人は驚いてそう感じるのだが、すぐに笑顔の彼女を見ると、すぐにたった今感じたはずの冷静な目を忘れてしまっている。それこそが岩崎蓮という少女の本性なのではないかと思う。
蓮が睦月の様子を見ていて、睦月から離れて行った先生を見て、
「しょせん、先生というのは仕事としての先生でしかないんだわ」
と思うようになった。
言葉では何とでも言えるのだが、実際に自分の思い通りにならなければすぐに見捨ててしまう。それは、生徒を自分よりも目下としてしか見ておらず、
「私が導いてあげなければ」
という何様根性が見え隠れしているからだろう。
しかし、先生という職業はそれでもいいのかも知れない。しょせんは在学中だけしか生徒を見ることができず、しかも担任でもなければ、あまり関わろうとはしない。
それは、生徒にとって本当に慕っているのは親だという思いがあるからで、
「生徒の家庭にまでは踏み込めない」
ということであろう。
しかし逆に学校では、
「聖域」
として自分たちの世界を維持しようとしている。
たとえ親であっても、学校内のことに口出しはさせたくない。その思いは、自分が家庭には踏み込めないという憤りを反映させるものであるに他ならないのだ。
しかし、睦月の親は、見る限りでは、
「親としての義務を放棄した」
としか思えない。
学校でだけは聖域だと他の生徒に思えることも、彼女に対しては通用しない。
しかし、親の対応には憤慨している先生にとって、それは家庭内に踏み込めない憤りと同じくらいの苛立ちがあった。
だが、しょせんは種類が違う。同じようなものだと思って対応していると、
「あれ?」
と、思わざる負えなかった。
睦月の態度になぜか苛立ちを感じ、それまでの睦月に対して行った心身の消耗を自分で理解できないでいた。
その苛立ちを、こともあろうに睦月に向けた。
「私が苛立っている理由は、向田さんにあるんだわ」
と思うと、精神的に何かに蝕まれていることを意識していた。
そのうちに、先生は身体を壊して学校を辞めることになった。その理由を生徒も他の先生も誰にも分からなかったが、分かっていたのは蓮だった。
睦月も本当は分かっているのだろうが、それを認めたくないという思いから、
「私には関係ない」
と自分で自分に言い聞かせていた。
「私って、まわりに悪影響を与えるような性格なのかしら?」
と考えるようになった睦月は、なるべく人と関わらないようにしていた。
最初はそれでもよかったが、次第に寂しさが募ってきて、