負のスパイラル
今まではずっと自分のことをまだ子供だと思っていたので、お嬢さんなどと呼ばれたことはもちろん、意識したこともなかった。そういう意味で道化師の言葉に、最初は誰のことを言っているのか分からずに、戸惑いと躊躇があったのだ。
「お手伝いと言っても、何かをしていただこうとは思っておりません。怖いことでもないのでこちらにおいでください」
と道化師に手招きされて、蓮は次第に恐怖が薄れていくのを感じた。
今までの蓮であれば、道化師のような得体の知れないと思える人を相手にすることはなく、向こうから相手にされることもなく、まったく別世界の人間だという意識を持っていたに違いない。
それなのに、どうして恐怖が薄れて行ったのか分からない。何しろ表情が分からない相手なのだから、得体の知れない人物とはまさにこのことだった。
まわりの人たちは一斉にこちらを向いて、拍手している。それは心からの拍手でないことは分かっていた。
――どうせ自分に白羽の矢が当たらなかったことを喜んでいるんだわ。私が選ばれたことにホッとしているくせに――
と、苦々しい気持ちになっていた。
だが、その視線があったからこそ、恐怖が和らいだのではないかと蓮は感じていた。人の視線が時として自分にとっていい方に変化をもたらすのかも知れないと、その時初めて気が付いたのだった。
蓮は仮説の演台の上から、腰を低くして手を差し伸べる道化師に見入れらるように、演題の上に上がった。
「この勇気あるお嬢さんに拍手」
と言って、道化師は蓮に前を向かせ、手を握って、その手を大きく広げて観衆にアピールをした。
蓮もつられて手を大きく広げ、観衆に向かってアピールしていたが、気持ち的には他人事だった。
他人事ではあったが、やはり声援を浴びるというのは嬉しいもので、今まで浴びたことのないスポットライトを浴びたことで、さっきまでの恐怖が何だったのかと思うほどに落ち着いていたようだった。
「お嬢さん、こちらに横になってください」
と言われて、道化師の向こう側を見ると、いつの間にかそこには仮説ベッドが置かれていた。
仮説ベッドと言っても、病院の診察室にあるような真っ白で何もついていないベッドで、せめて転倒防止の金具があればそれらしいのだろうが、それもなかった。
おかげでベッドに容易に横になることができたのはよかったのだが、まさか諸ピングセンターの休憩スペースであおむけになるなど、考えたこともなかった。
――思ったより、天井って高いんだわ――
このショッピングセンターの休憩スペースは、他のショッピングセンターよりも天井が高かった。三階部分くらいまでが吹き抜けになっていて、相当高いことを今さらながらに感じさせられた。
それなのに、明かりは十分だった。天井からの明かりがまるで太陽のように降り注いでいる感覚に、高さの感覚がマヒしているようで、思わず自分の身体が宙に浮いているかのように感じられた。
「大丈夫ですか? お嬢さん。心配はいりません」
と、やたら道化師は蓮の心情を気にしているようだった。
言われてみると、緊張からか、身体が硬直しているように感じられた。
「あっ、はい。大丈夫です」
とやっとそう答えたが、その声は震えていた。
天井を見つめたその目を、こちらを覗き込んでいる道化師の顔に向けると、急に暗く感じられた。それまでの明るさがウソのように影の部分が次第に増えてくるようだった。
「大丈夫ですからね」
という道化師の声が次第に遠くに感じられるようになり、まるで水の中に沈んだまま聞いているかのようだった。
「あれ? 私何か宙に浮いているみたいだわ」
と言ったのかどうか、自分では言葉にしているという確信はあったが、道化師はまったく反応を示さない。
「大丈夫ですからね」
という言葉を何度も口にしている。
何度目かのその言葉を最後に蓮は意識を失ってしまったが、その時蓮は、
――大丈夫ですからという言葉、本当に何度も浴びせられたのかしら?
と感じていた。
同じ言葉をずっと自分の中で反芻しているかのように思えて、意識が薄れていく中でまるで目の前に糸に吊るされた五円玉が揺れているのを感じるのだった。
それが催眠術であることは分かっていた。
「あなたはだんだん眠くなる。三秒後にはあなたは熟睡してしまいますよ。三、二、一……」
自分の意志ではなく、他人の力によって睡魔に襲われるなど、考えたこともない。
睡眠薬も飲んだこともなく、手術の経験もないので、麻酔による睡眠も経験したことがない。だが、この感覚は初めてではない気がしたのはどうしてなのか? 気が付けば眠りに就いていたようだ。
それからどれくらいの時間が経ったのかまったく分からない。気が付けば、
「この勇気あるお嬢さんに拍手」
と言って、道化師が観衆に向かって扇動すると、観客も何の疑いもなく、喝采と浴びせていた。
その喝采の相手が道化師に向けられているものなのか、それとも自分に向けられているものなのか、すぐには分からなかった。
蓮の頭はまだスッキリとはしていなかったが、観客が自分に対して喝采を浴びせてくれていると思うと、次第に笑顔になってくるのを感じた。目覚めてすぐなので、その表情は硬かったのかも知れないが、その時にできる限りの笑顔で答えられたのだと蓮は感じていた。
その拍手が鳴りやまないように感じられた。一分、そして二分と、時間は刻々と過ぎていった。
――どうして皆拍手をやめないの?
と思っていると、自分の頭だけが次第に睡魔を離れ、元の自分に戻って行くのを感じていた。
考えてみれば、今までの蓮であれば、まわりから注目を浴びることは嬉しい以外の何物でもなかったはずである。
人の話を鵜呑みにして、なるべくポジティブに考えるようにしていた蓮だったはずなのに、この日は余計なことばかりが頭を巡る。
きっと、今までの自分であれば想像がついたような展開が、この日はまったく想像もつかないような出来事の連発で、戸惑っているからなのだろう。
蓮は時計を見てみた。さっき意識して時間を感じた時から、すでに三十分は経っていた。時間を意識してからこの演台に上がるまでを考えると、どう考えても五分も経っていなかったはずだ。それが演台の上で意識が戻った時には三十分を過ぎていた。意識を失った二十五分近くの間、何が行われていたというのだろう?
蓮はまた不思議な感覚に見舞われた。さっきまで観客席を漠然と感じていただけだったが、その観客席の一番最前列から、痛いほどの視線を感じたからであった。
――何、この視線は――
と思ったが、すぐには見ることができなかった。
そこにはさっきまで感じなかった恐怖があり、その恐怖は最初に感じたものが戻ってきたのだと思わせるものだった。
眠気からなのか、視力がかなり低下しているようだった。いや、視力が低下しているというよりも、焦点を合わせることができないだけで、目が慣れてくると見えるようになることが分かっているので、それほど怖いという意識はなかった。目が合ってくると、やっと観衆の最前列を見ることができたのだが、その瞬間、蓮は凍り付いたかのような恐怖を感じた。