負のスパイラル
ただ、何かを考えていたのは間違いない。覚えていないだけだった。中学生なのに、そんなに簡単に忘れてしまうというのは若年性痴呆症にでもなったかのようで、あまり気持ちのいいものではないが、考えてみれば、それだけ考えている次元が違っていると思うと、忘れるというのもありではないかという思いも心の底にあった。
考えてみれば、子供の頃の方がその傾向が大きかったと思う。その頃は、
「子供だからしょうがかい」
という思いがあった。
何がしょうがないというのかというと、漠然としたものだった。
「子供だから何をしてもしょうがない」
という大まかな考えでしかなかった。
何をしてもしょうがないというのは、何をしても許されるという言葉の裏返しであり、何をしても許されるというのは子供を見ている大人の側の考え方であることは、子供の自分には分からなかった。
自分が大人に近づいていくうちに少しずつ分かってくるものであって、大人でなく子供でもない中途半端な自分に憤りのようなものを感じていたのだろう。それが焦りだったのかどうかは、大人になれば分かると思っていたが、その分時間も経っていて、しかも成長することで、分かっていたものが分からなくなってしまう可能性も秘めていた。
ただ、大人になれば、その可能性を言い訳にしてしまうことになるのではないかと、その時の蓮は考えていた。大人になれば言い訳が増えてくるのは自分の親や、学校の先生、さらにはドラマに出てくる登場人物を見ていれば分かる。特にドラマなどでは、言い訳が巧みであることで、ストーリーに変化をもたらすことも往々にしてあるというものだった。
「大人になるということは、言い訳を巧みに使い分けられるようになることなのだろうか?」
とも思ったが、最近では少し違う考えを持つようになった。
「大人の言い訳は子供の言い訳よりもタチが悪いのではないだろうか? ただ、その言い訳を分かっていて了承してしまうのも、大人の世界ということになるのではないだろうか?」
と考えるようになった。
最近ではテレビを見ていてもドラマだけではなく、ニュースも見るようになった。
その理由は、別に教養を付けたいというのが直接の原因ではない。確かに教養を身につけたいという思いもあったが、それよりももっと直接的に、
「見ていて面白い」
というものがあった。
何が面白いのか、最初はよく分からなかったが、突き詰めてみると、政治家などで世間を騒がせている人がいると、その記者会見でも言い訳であったり、その言い訳に対してコメンテーターの人の解説であったりが面白かった。
人によっては、徹底攻撃をする人もいれば、一応の擁護をする解説者もいた。
「徹底攻撃はする方とすれば簡単なのかも知れないけど、擁護する方は、結構考えながら擁護しているように思う」
と見えていたが、考えていることとすれば、よくよく考えると、結局はその人も自分の身を守るためであったり、世間の徹底攻撃への面白みから目を背けることで、自分への注目を集めようとする意識の表れにも見えて、そのミエミエの態度が忖度という言葉をさらに悪いものに聞こえさせる効果をもたらしていた。
蓮はその時何を考えていたのか少しの間思い出そうと試みたが、結局思い出すことはできないと判断すると、椅子に座ってからどれくらいの時間が経ったのかということに興味が移った。
自分の感覚では五分程度のものくらいではなかったかと思っていたが、時計を見てみると二十分近くは経っていた。エスカレーターから降りてくる時、無意識だったが時計を見た。蓮は時計に目を移すのが癖になっていて、気が付けば時計を見ていることが多かったのだ。
だが、その時何時何分だったのかということを納得した上で、その時間を忘れてしまうことも往々にしてあった。それは定期的に時計を見る癖が付いていたので、どの時に自分が意識している時間を表示していたのか、思い出そうとすると意識の高揚を招いてしまい、我に返ってしまうのだった。
意識の高揚とは、普段無意識に感じていることを、急に意識してしまったり、思い出そうと意識的に考えたりすることで、自分が我に返ってしまい、一時的な記憶喪失になってしまう状態を言った。
これが医学的に証明されていることなのかどうか、蓮には分からなかった。だが、この意識を人に相談したことはあった。その相手は睦月だったのだが、睦月にも同じような感覚があったようで、
「私も同じことを考えていたんだけど、誰かに相談するつもりはなかったのよ」
「どうして?」
「今さら人に聞いても恥かしいという思いがあったんだけど、その思いの裏返しに、『私だけではなく、誰もが感じていることではないか』と思うことで、それを人にあらたまって聞くということは愚の骨頂に思えたのよね」
と言った。
思わず頷いた蓮だったが、蓮にも同じような思いがあったからだ。しかし、この思いを抱いていたというのは、睦月から言われて初めて分かった気がした。分かってはいたのかも知れないが、それを言葉にうまくできない気がしていた。自分の中だけでも言葉にできないということは、漠然とした思いはあっても、そのモヤモヤが決して晴れることはないのだと思っていたのだった。
蓮は目の前で繰り広げられているマジックを、どのように見ていたのだろう?
普段であれば、
――あれはどういうトリックなんだろう?
とそのタネを解こうという思いで見ていたのではないだろうか?
だとすればその時も同じようにタネを見ながら解けるように努力をしていたのかも知れない。そう思う方が自分の中でもしっくりくるのだ。
だが、この思いは何なのだろう?
どこかザワザワした思いが頭の中を巡る。
「ネタを解こうとしていたわけではないだろう」
と自分に問いかける何かを感じた。
そう思いながら見ていると、ピエロに扮して顔が分からないマジシャンが絶えず自分を見ているように思えてきた。
――これがザワザワした気持ちの正体なのかしら?
と蓮は思ったが、その思いに間違いはなかった。その男の顔から、いつの間にか目を逸らすことができなくなっていたのだ。
「そこのお嬢さん。申し訳ないがお手伝いいただけるかな?」
魔術師は道化師の扮そうから、誰かに声を掛けていた。
その声は、表情が分からないからなのか、本当に目の前の道化師が発した声に思えないほど、どこから聞こえてくるものなのか、すぐには分からなかった。
「えっ?」
と、蓮がハッとしていると、どうやらそれは自分に対しての声のようだった。
どうしてそう感じたのかというと、まわりの視線が一瞬で自分に向いたからである。普段から注目されることに慣れていない蓮は、初めてと言っていいほど自分に向けられた注目に敏感になっていたのだ。
学校では比較的目立つタイプだと思っていたが、実際には自分にまわりの視線が一気に向くということを意識したことはなかった。
――あれは気のせいだったのかしら?
と思うほど、今回の視線は痛いほどだった。
蓮がビックリしたのは、自分のことを道化師が、
「お嬢さん」
と呼んだことだ。