負のスパイラル
蓮は祐樹が兄との話をする時、あらぬ方向を見つめていることに気付いていた。どこを見ているのか分からないが、その先に見えるものが何なのか、祐樹には分かっている気がした。
しかし、それは蓮と話をしている時だけなのではないかと思った。蓮も祐樹と話をしている時、普段は感じることのないものを感じることができている予感があった。それがなんであるのか自覚はできないが、祐樹も同じなのではないかと思った。そう思うと、蓮の中に祐樹の存在が自分にとって避けて通ることのできない存在であることを確証できる気がしていた。
「僕はクラシックを聴いていると怖くなることがあるんだ」
「怖い?」
「ああ、、オカルトやホラーのようなイメージが湧いてしまうんだ。だけど、ジャズを聴いているとそんなことはなくて、いつも楽しい雰囲気になるんだよ」
「それはあるかも知れないわね。でもそれって映画やドラマの音楽に、ホラーなどではクラシックが使われたりするけど、ジャズは陽気な話にしか使われることがないでしょう? それと同じなんじゃないかって私は思うのよ」
と蓮が言った。
「それはそうかも知れないけど、じゃあ、どうしてクラシックって、あんなに恐怖心を煽るんだろうね」
「私は偏見だって思うわ。でも考えられるとすれば、使わている楽器の種類なんじゃないかって思うわ」
「ジャズもクラシックも同じような楽器は結構あるんじゃないかな? やっぱり演奏の仕方で感じ方が違うんじゃないかって思うよ」
「私のこれは私見なんだけど、ジャズとクラシックって、元々同じだったんじゃないかって思うの。発展した国の違いはあるかも知れないんだけど、言語が国によって違ったとしても、元々同一民族だったら、同じところから派生したとも考えられなくもない。それと同じなんじゃないかな?」
という蓮の意見に対して、
「確かにそれは言えると思うけど、僕にはやっぱり元が同じだったという発想がどうにも納得がいかない気がするんだ」
「何十年か前に、ジャズやクラシックのような音楽を融和したジャンルが、ロックとして流行した時期があったと思うんだけど、あなたはその音楽をどう思っているの?」
「プログレッシブロックのことかい?」
「ええ、そう」
「僕は、プログレは好きだよ。今でも好きだ。プログレって、ジャズからの派生だったり、クラシックからの派生がほとんどだって思うんだけど、僕は普段はジャズが好きなくせに、プログレになると、クラシックからの派生型が好きなんだ。ジャズの派生型はむしろ邪道のように思えるんだ」
「それは自分の好きなジャズというジャンルを、他との融合という形で犯してほしくないという感覚があるからなんじゃない? その気持ち分かる気がするわ。でも、どこかで犯してほしくはないと思いながらも認めざるを得ないと考えているんじゃないかしら?」
と蓮がいうと、今度は祐樹が思い出したように言った。
「そういえば、ジャズとクラシック、どっちが先に生まれたのかな?」
「それはクラシックじゃないのかしら?」
「どうしてそう言いきれる? 確かにクラシックの歴史の方が現代に残っている音楽としては古いんでしょうけど、ジャズの先祖のような音楽も昔から存在していたとは言えないのかな? クラシックはジャズの先祖を後ろから見ていて、自分独自に発展した形だったとすれば、元々ジャズの祖先からクラシックと、王道ジャズの二つに枝分かれしたとも考えられないかな?」
「それは斬新な考え方ね」
と、蓮は思わず頷いた。
「でも、この考え方を最初に言い出したのは、実は兄だったんだ。この説を聞いて、僕は兄の前に回りこめなくなってしまったんじゃないかって思うようになったんだよ」
その話を聞いて、蓮はまた五分前の女の話を思い出した。
――五分前の女の発想も、ひょっとすると彼のお兄さんの発想に近いものがあったのかも知れないわね――
と感じた。
「ニワトリが先か、タマゴが先かという発想を聞いたことがありました?」
と、彼は言い出した。
「ええ」
もちろん聞いたことがある。
この話を最初に聞いたのは、小学生の頃だった。相手は確か近所のおじさんだったと思うのだが、そのおじさんは博学だった。
しかし、そのおじさんにはよからぬ噂が付きまとってもいた。
「あの人、いつも遠くから鋭い目でこっちを見ているのよ。気持ち悪いったらありゃしない」
という話や、
「この間は、ごみ箱を漁っていたって話を聞いたことがあったわ。気持ち悪いわね」
という話もあった。
ゴミ箱を漁っていた理由として、蓮は最初、
「乞食のようなマネをしているんだわ」
とまるで残飯漁りをしているだけだと思っていたが、よくその話を聞いてみると少し様子が違っているようだった。
「ゴミをゴミ箱から出して、何かを探しているようだったのよ。人のプライバシーを侵害しているようで、それが気持ち悪かったのよ」
というと、別のおばさんが、
「あら、嫌だ。どうして警察に通報しなかったのよ」
というと、
「したわよ。でも警察では現行犯でないと逮捕できないと言われて、とりあえず、警備を強化してもらうことにはしたんだけど、どこまで信用していいものなのかしらね」
と言っていた。
警察が何かが起こってからでは動かないことは小学生の蓮でも分かっていた。最近増えてきた子供への犯罪に対して、世間の注目が高まっているわりには、警察は動いてくれない。だから学校側も道徳やホームルームの時間などで、
「警察は何かが起こらないと動いてくれないということは覚えておいた方がいいわ。だから自分の身は自分で守らなければいけない。なるべく集団で行動したり、保護者の人に協力してもらったりして、一人にならないようにすることが大切です」
という教育を受けていたのだ。
小学生に対して、
「自分の身は自分で守らなければいけない」
というのは酷なことではあるが、これくらい言っておかないと、子供は真に受けてくれない。
それを学校側も分かっているようで、完全に警察を信用していないようだった。
そんな頃にゴミを漁るおじさんの話を聞いたので、少し怖いと思っていたが、一度蓮が一人で歩いている時、おじさんが近くを一人で通りかかった時があった。
咄嗟に危険を感じた蓮だったが、幸いにも近くに隠れられるところがあったので、身を隠した。相手は蓮に気付いているのか、その場に立ち止まった。
シーンと静まり返ったその場所で、蓮は緊迫した空気に包まれて、呼吸もまともにできない状況に追い込まれた。
――どうしよう――
その場から出ていきたい衝動に駆られながらも、足が動かない状況に、隠れ続けなければいけないのは、蓮にとって初めての恐怖体験であった。
そのうちにもう一つ靴音が聞こえて、その音が近づいてくるのを感じると、蓮は根拠があるわけではないが、
――助かった――
と感じた。
その靴音が最大になったかと思うと、音がそこで止まったみたいだ。大きくなったら次は通りすぎるために小さくなるものだと思っていた蓮には意外だった。