負のスパイラル
蓮と睦月の仲もまだまだ蜜月の時期で、これからお互いにぎこちなくなるなど想像もしていなかった頃だった。
それから少しして、蓮とまた「五分前の女」の話が話題に上ったことがあった。その時蓮の話として、
「あの時は自殺したんじゃないかって思ったんだけど、今でも自殺で間違いないんじゃないかって思うのよ。でも自殺したとしても、それは本人の意志が働いてのことではなかったんじゃないかしら?」
と言い出した。
「どういうこと?」
「実は白衣の男が、主人公の女性が死にたくなるように仕向けたというか」
「罠に掛けた?」
「というよりも私は催眠術のようなもので、彼女を誘導したんじゃないかって思うの。確かに自殺願望がなければ催眠術も効かないんだって思うんだけど、彼女の潜在意識に訴えることができれば、自殺の誘導なんか簡単じゃないかって思うのね。人というのは誰しも大なり小なり、自殺を心のどこかに隠し持っているような気がするのよ」
と蓮は言った。
睦月は、
「おや?」
と思った。
いつもの蓮とは違っていたからだ。蓮はいつもは天真爛漫で、最近こそ悩みが深いのは分かっていたが、それでもここまで自分の説を懇々と話すような女の子ではない。何かに憑りつかれたかのように必死の形相を感じたのは、背筋に寒気を感じたからであろうか。
それに蓮が自分の意見を必死になって話すことがなかったのは、自分の意見に自信がないというよりも、元々自分の意見などなく、自分の考えていることは、きっと誰もが考えていることだという思いに駆られているからだと睦月は思っていた。
そんな蓮が懇々と自分の意見を話すというのはまれであり、何があったのかと思わざる負えなかったのだ。
「一体、どうしたの?」
と一度確かめようかとも思ったが、ここで話の腰を折るのは睦月には忍びなかった。
その理由は、蓮の意見が睦月には興味深いもので、
――もっと聞いてみたい――
と感じさせたからに他ならない。
催眠術などという発想を蓮が持つとは思えなかった。蓮はあまり超常現象や非科学的なことを信じる方ではなかった。どちらかというと非科学的なことを信じないのは睦月の方だったのだが、蓮にも同じようなところがあることに気付いて、さらに親近感を持ったのだった。
そんな蓮が催眠術を口にするというのもおかしいと思った。
睦月は自分が超常現象や非科学的なことを信じない代わりに、小説などの架空のお話で自分が信用していないものをフィクションとして楽しむことを選んだ。
「これはあくまでもフィクションなんだ」
と思えば、それなりに楽しみ方もあるというものだ。
睦月は、フィクションとノンフィクションを巧みに使い分けることができる。というよりも、
「何かにこだわっている」
と言った方がいいかも知れない。
たとえば、
「私は歴史に関してはフィクションは読まないけど、小説はフィクションしか読まない」
というところなのである。
歴史小説は、あまり好きではない。なぜなら歴史が好きだからだ。歴史というものは、昔からあることわざのように、
「事実は小説より奇なり」
という言葉を思い起こさせる。
学校で習う歴史の授業は、完全に暗記物だった。年代を語呂合わせで覚えてみたり、時代と事実や人物を結びつけたりするだけの、まるで数字合わせだったり、積み木を組み立てるようなものだったりした。
実際の歴史は、学校で習う勉強とは違い、時代ごとに史実は結びついていて、ひいては日本の歴史自体が一つの線で結びついている。
しかし、さらに奥深いところでは、また違った事実が存在したり、それまで定説だと言われていたことが、実は違っていたりと、何が正解なのか、時間が経つにつれ、分からなくなってくる学問だ。
逆に言えば、通説を覆すような発見が歴史学の進歩であり、過去の歴史を掘り返すことで、現代の我々の暮らしを別の視点から見ることができる。それが歴史なのだ。
つまりは、歴史へのフィクションというのは、冒涜のようなものだというのが睦月の考えだった。
歴史小説のように、実在した歴史上の事実に、架空の主人公を当てた小説や、すべてが実在する人物や事件を、史実とは違った過程や結論に導く小説、読んでいて面白いと思う人もいるだろうが、睦月にはどうしてもそうは思えない。やはり、
「史実は小説よりも奇なり」
なのだ。
逆に歴史小説以外の小説に関しては、ノンフィクションは嫌いである。
エッセイなどのように、一人の実在する人物をモデルにした小説は、人の心を打つものなのかも知れないが、小説というものは書き手の発想力によるものが原点だと思っている。つまりは、
「実在すること、つまり自分で組み立てたことではないことを書くというのは人の人生を代筆しているだけにしか思えない」
ということだ。
それがたとえ自分のことであっても、発想ではなく事実をテーマに書くことを邪道のように思っていた。これは歴史小説を見るのとは正反対の感覚だった。
そういう意味で、フィクションとノンフィクションを使い分けて考えていた。このことは誰にも話していない。もし話したとすれば、
「あなた、変わっているわね」
と一蹴されて終わりだからだ。
超常現象や非科学的なことは、あくまでも小説の世界だけのこと。事実であるとしても、それは自分とは関係のないところで展開されることだと感じていた。
「視野が狭い」
と言われればそれまでなのだろうが、まだ子供の睦月には、視野が狭くても仕方のないことだと自分で思っていた。
だが、蓮は違っていた。
「子供だからこそできる発想だってある」
と思っている。
蓮は大人に対して偏見を持っている。
「二十歳過ぎればただの人」
という言葉があるが、子供の頃に天才だとか、神童だとか言われている子というのは、得てして大人になると、平凡な大人になるということを意味している。
だからこそ、子供時代は大切だと思っていた。勉強を始めたのも最初のきっかけもその発想だった。
「神童や天才と言われるのは、実際に勉強ができるのが当たり前という発想で、生まれつき頭のいい子に言えることだ。私の場合は、元々の頭がないから、努力するしかないんだわ」
と感じていたのだ。
これから一生懸命に勉強をして、何かになろうという発想があったわけではない。ただ勉強を始めてみると知らなかったことを分かるようになるということがどれほど楽しいかと、算数に教えられたのだった。
中学生になって挫折を味わっている蓮だったが、元々天真爛漫なところがあったので、いずれは前のように元気になることは睦月には分かっていた。
だが、睦月と蓮の発想に決定的な差があることに最初に気付いたのは、睦月だった。
どちらが正しいというわけではないが、お互いに譲れない発想だと思っていた。睦月はそのため、蓮に対してたまにではあるが、敵対意識をあらわにすることがあった。
睦月はそのことを蓮が気付いていないと思っていた。
「蓮は思ったよりも鈍いところがある」