短編集66(過去作品)
それは人類の永遠のテーマであり、いわゆる「パンドラの匣」である。開けてしまえばどうなるか分からない。浦島太郎の「玉手箱」これこそ、教訓の一つではないだろうか。
タイムマシンの開発は大きなパラドックスである。過去に戻って歴史を変えてしまえば、後に起こる現実はひん曲った世界ができあがってしまう。捻じれた形になってしまうことで、帰る世界がなくなってしまっているだろう。
過去の歴史を変えた瞬間に、自分も消滅してしまうというのが一般的な考え方だ。一つの事実を変えることで、刻んでいる時間の単位ごとに、変化が広がってしまう。それも放射線状に。
刻んでいる時間の単位が秒単位であれば、ものすごい勢いだろう。次の瞬間の自分は違う自分になってしまっていて、本来進むべき時間の同じ時間に、自分という人間がもう一人存在していることになる。それが次には倍に増えている。これこそが四次元の発想ではないかと教授はいうのだ。
四次元の実験は、大きな危険と隣り合わせなのだ。タイムマシンが「パンドラの匣」だというのもうなずける。そんな研究をしている教授についていけなくなりそうなのも当り前というものだ。
最近の自分は気が狂っているのかも知れないと賢治は考えていた。
過去にも無数の科学者がタイムマシンを作ろうと躍起になっていた。ひょっとして作り上げた人もいたかも知れない。しかし、作り上げた瞬間、喜びが絶頂に達し、そのまま気が狂ってしまった人がいるのではないだろうか。
タイムマシンとはそれほどのもので、間違って使用すれば、すべてを消し去ることになる。現実のものとしての開発ではなく、想像だけのものにしていれば何の害もない。だが、科学者というのはそれだけでは我慢できない。自分の手で作り上げることに生きがいを感じる。生きがいという言葉だけで片づけられるものではないかも知れない。そこには、気が狂いそうになりながら、命を削ってでもと考える人がいる。
「教授、やめてください」
何度口に出して言おうと思ったことか、しかし、教授の目を見ていると、気が狂った人間のようには思えない。科学者としての燃える目を持っている。だが、いずれ気が狂わないとも限らない。賢治は怖い気持ちもあったが、自分も同じ道に入り込んでしまっていることに気づくと、ここでやめる方が、却って気持ち悪さを感じるのではないかと思えた。
賢治が入った喫茶店、そこに飾られている絵を見ていると、
「あら、賢治さんじゃないの。お久しぶりね」
声の主に覚えがあったので、ビックリして振り向いた。そこには、ついさっき思いを馳せていた大学時代に付き合っていた彼女がニコニコしながら立っていたのだ。
久しぶりに見た他人の表情、しかも笑顔であることに、賢治はホッとした気分になった。どれほど自分が最近俗世間から離れていたかを思い知らされたかのような気分にさせられていた。
まるで夢を見ているようだ。
最近、そういえば夢を見たという記憶がない。夢を見た時の目覚めというのは、あまり気持ちのいいものではない。
――熟睡しているから夢を見ているはずなのに――
夢を見ない時は、実際に起きる予定の時間までに、何度か目を覚ましているものだ。それが三十分おきの時もあれば、十五分おきのこともある。その感覚は同じ日であれば一定で、身体と精神のバイオリズムがそうさせるのかも知れない。
夢を見る時は、途中で目覚めることはなかった。だが、目覚めの時間が気になっている時などは、目を覚ますことを夢に見たりしているものだ。目覚めてから何かをしている。それが何なのか、その時によって違っている。やはり何かの願望があるに違いない。
時にはコーヒーを飲んでいる夢を見る。
夢の中では感覚はないものだ。見るものすべてがモノクロであったり、匂いを感じなかったり、痛みを感じなかったりする。恐怖が迫ってくれば目が覚めてしまうのが夢であるが、それも、夢が五感を感じさせないからに違いない。
コーヒーに限っては香りを感じることができる。飲んで見ると苦さもあり、熱さも感じる。夢を見ているつもりで、現実のことではないかと思えてくる。賢治は目が覚めると必ずコーヒーを飲むようにしていて、その時間を逆算して目覚ましを掛けているのだった。
目が覚めるのは、目覚ましよりも早ければ起きてくることもある。しかし、たいていはギリギリまで寝ている。夢を見たいと思っているからなのかも知れないが、途中で何度も目を覚ました時は夢を見ることは難しい。見れたとしても目覚めは最悪なのだ。見たいと思う方がおかしいだろう。
喫茶店で声を掛けてきた女性をすぐには思い出せなかった。今までに付き合った女性は何人かいたが、彼女は最後にまともに付き合った女性だった。賢治は研究に打ち込むために、彼女を作ることをせず、性欲が溜まれば、風俗に通うという本能を解消するだけの男になっていた。
後悔はしていなかった。余計なことに神経を遣わないということがこれほど気が楽なことだとは思わなかった。人を好きになったり、女性に感情を持ったりすれば、そこに付きまとってくるのは、不安の二文字であった。
「そのうちにふられるかも知れない」
心の中で呟く。
「ふられる前に自分が嫌気を刺すかも知れない」
どちらにしても、辛いことだった。出るはずのない結論を悶々と考えている自分を思い浮かべると、不安は当然というもので、
「時間が解決してくれるさ」
などという自己弁護をしてみても、その時間がもったいないと思うのは、それだけ研究している時間が充実しているからだ。
彼女からも実はふられたのだった。
「あなたとは友達以上に思えないの」
言葉の常とう手段で、言われた瞬間にふられたことが決定してしまった。それ以上何かを言えば、未練になってしまう。相手もそれを知っていて、
「何も言い返せないはずよ」
と、目で訴えていた。
これ以上、その場の雰囲気に耐えられるはずもなく、何も言わずに席を立って、そのまま振り返ることもなく、彼女の前から姿を消して、二度と現れることはないと決意したものだった。
それなのに……。
彼女の方から声を掛けてきた。まるで何もなかったかのような屈託のない笑顔に、思わず笑顔を返してしまった。だが、賢治は後悔していない、笑顔には笑顔で返して何が悪いと思っているからだ。
それこそ、まるで夢を見ているようだ。時間の経過は、いつの間にか解決してくれていたはずだ。彼女のことを思い出すことが少なくなり、忘れてはいないはずなのに、気にならなくなっていた。
実際に目の前に現れた彼女を見ると、すぐに思い出せなかったのはなぜだろう。彼女が自分に声を掛けてくるはずがないという思いからだろうか。それとも、夢を見ているのではないかと思ったからだろうか。
夢を見ているのではないかと思ったとすれば、それは無理のないことだった。
夢の中というのは何でもありだと思われがちだが、実際には潜在意識の枠を超えることはない。
――空を飛べるはずなどない――
それは賢治だけではなく皆感じていることだが、夢の中で空を飛びたいと考えることが何度もあった。
作品名:短編集66(過去作品) 作家名:森本晃次