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短編集66(過去作品)

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 トラウマになってしまっているのかも知れない。トラウマというのは、いつまで経っても消えないからトラウマなのだ。
「誰かと結婚したいと思うようになるんだろうか?」
 と思ったのは、もし結婚したいと思うとすれば、付き合い始めた彼女しかいない。その彼女のことをその時に、どう考えても結婚相手には見えなかったからだ。
 それがいつも間にか結婚相手として意識をし始めた。一緒にいて楽しくなかったものを必死に楽しくしようと努力を続けていたのがウソのようだ。
 面白くないと思っていても、それなりに努力はしていた。どうすれば楽しくなるかを考えると、昔のシチュエーションとダブってしまうことで、考えられないという溝に嵌ってしまったのだろう。
 一緒にいて楽しい時期に入ると、それまでのことを思い出しただけでも嬉しくなってくる。自分が微笑ましく感じられるようになり、自然と笑みが零れてくる。
「どうしてあの時気付かなかったんだろう?」
 と感じてきた。
 車の助手席に乗せて海を見に行った。初めて二人だけのデートだったが、自然と唇が近づいていった。彼女は小刻みに震えていたが、抵抗する素振りは見せなかった。
 実に物静かで黙ってついてくる三行半の性格である。男としては、これほど嬉しいものはないのではないだろうか。それまでに感じていた女性像に近いものだっただけに、前の彼女が忘れられない自分が情けなくさえあった。
 彼女と一緒にいるだけで、それまでの過去を忘れることができそうだった。しかし、実際に忘れることなどできるはずもなく、
「これからの思い出で塗り替えていくんだ」
 という前向きな考えを持つことができた。彼女に感謝の気持ちが芽生えたのはそれが最初だった。
 感謝の気持ちがいとおしさに変わる。抱きしめたくなって抱きしめると、抗うことはない。まるで人形のようだが、小刻みな震えは止まらない。それが男にとって溜まらない感情を産むのだとその時に感じた。
 結婚を考えた。彼女も佐吉にしたがった。お互いに後悔など起こるはずはなかった。
「恋愛なんて一年がいいところさ」
「結婚は人生の墓場っていうからな」
 口の悪い人はそう言っていた。しかも皆既婚者である。冗談にも聞こえるが、なまじ信じられないわけでもない。
 披露宴はしなかった。身内のものだけで、質素に食事会。
「おいしいものでも食べていればいいさ」
 これは佐吉の父親の言葉だった。
 確かに披露宴のような大袈裟なものをする必要はない。式を厳かに行い、派手に披露宴を行うというのは、あまり派手好きではない佐吉の家族には受け入れられない。自分たちも大袈裟な結婚式はしなかったらしい。
「貴重な休日を人の幸せのために呼ばれてわざわざ潰すこともあるまい」
 これが基本的な考えだった。派手なことが好きではない人間の言い訳にも聞こえるが、理屈も通っている。
「そうだよね」
 何よりも佐吉も金銭的な蓄えがなかった。それでも。
「披露宴って掛かったお金は返ってくるわよ」
 と既婚者の先輩女性は話している。しかし、それこそ余計なお金を参加者に使わせてしまうことになる。それも気が引けるではないか。
 彼女の家族は佐吉の家族に輪を掛けて地味だった。
「披露宴は両家の招待客に差が遭ってもまずいよね」
 要するに呼ぶ人が圧倒的に彼女の方は少なかった。完全に釣り合いが取れないのである。
「どうしたものかね」
 という話をしていたところへ、佐吉の父親の披露宴をしない説が飛び出したのは渡りに船だった。
「お互いに仲良くしていきましょう」
 披露宴をしななかった変わりに行った食事会での会話だった。
 実に地味な食事会だった。母親同士の会話はほとんどなく、却って気を遣う場面があったが、佐吉の母親が一言口を開くと、彼女の母親も口を開く。一安心だった。
 彼女もどちらかというと無口である。三行半なだけだと思っていたが、どうやら遺伝であることはその場で分かった。会社では友達もいて、別に暗い方ではない。確かに人見知りはするが、性格的に頑固で、自分が好きになれない人だと分かると、あからさまにさけようとする。それがいいのか悪いのか、その時の佐吉には分からなかった。
 結婚してからの新婚生活は、想像以上に楽しいものだった。毎日夢を見ているような気持ちになり、まるでままごとでもしているかのようだった。
 子供は生まれなかった。お互いに子供を作ろうという意識もなかったし、いつまでも新婚気分を味わいたいと感じていた。
 しかし、男性はまだしも、女性はそうも行かない。佐吉の母親が子供のできないことを気にし始めたのだ。
「どうしてできないの?」
 佐吉には言わない。妻にだけ話す。
 妻もそのことを佐吉に話さない。自分の胸の中にだけしまっていた。
 しかし、そんな状況がいつまでも続くはずもない。妻の様子のおかしなことはウスウス気付いていた。それでも、
「彼女は本当に困った時には、話をしてくれるさ。その時に対応すればいい」
 結婚してから、新婚生活の甘い思い以外は、相手を詮索しないことが暗黙の了解だと思っていた二人だったので、そんな風に佐吉は考えていた。
 最初の頃は妻も同じだったに違いない。仕事のことであれ、実家のこともほとんど話題にしたことはなかった。そんな二人は、お互いにいい雰囲気で気を遣いあっていると思っていたのだ。
 だが、それは佐吉の思い過ごしだった。次第にただでさえ物静かな妻がほとんど話さなくなる。佐吉を避けるようになっていることにウスウス気付きながら、お互いを干渉しないという暗黙の了解を律儀に守り続けていた。
 最初に約束したことを律儀に守り続けるのは佐吉のくせでもあった。状況は刻一刻と変化していても、状況に左右されない約束として自分の中で大切にしていたのだ。そんな佐吉に対して人は離れていく。それを佐吉は自覚できないでいる。一度友達から、
「お前は頑固だからな」
 といわれたことがあったが、
「どういうことだい?」
 と理由を聞いても、
「自分で気付かないと意味がないことさ。よく考えてごらん」
 思わせぶりだが、実に気になる言葉である。どうしていいのか分からない時期があったが、これも欝状態と同じで、長くは続かない。佐吉は、失恋などでは袋小路に入り込むが、人から聞いた話などは、すぐに忘れてしまう。それを自分ではアッサリしていると思っていた。
 年を取るにつれて、それが甘い考えであることに気付き始めていた。だが、妻との暗黙の了解を崩す気にはなれない。
「せっかく今までこれでうまくいっていたのに、下手なことはしたくない」
 という思いが強い。子供が生まれなくて、それを攻められているという状況に至りながら、見て見ぬふりをしてしまっている自分に対し、佐吉は逃げに走っていたのではないだろうか。
 佐吉にとって妻との約束は絶対だった。それは暗黙の了解でも同じこと。苦しんでいる人の気持ちが分からないことが罪悪であると分かっていなかったのだ。
 冷え切った関係であったことに気付かなかった佐吉だったが、次第に気付き始めると、自分が何をしているのか分からなくなってきた。
作品名:短編集66(過去作品) 作家名:森本晃次