短編集66(過去作品)
知らないこと
知らないこと
「あなたもそろそろ結婚しなさいね」
毎日のように母親から電話が掛かってくる。最初の頃は、仕事が忙しいからと相手にしていなかったが、最近では仕事が忙しいというのが言い訳だと自覚してきたこともあり、仕事が忙しいという理由を口にしたくない。仕事が好きな人は、仕事を言い訳にはしたくないものだ。
佐藤紀子は、母親の言葉の矛盾に最初から気が付いている。説得しているつもりでもそこに矛盾があれば、どこに説得力があるものか。分かっているだけに、電話をすぐにでも切りたくなるのだった。
電話で話していると、顔が見えない分、声の抑揚が微妙に変わってくる。しかも声だけと抑揚だけで相手は何を言いたいのか探りを入れてくるはずだ。顔が見えないから大丈夫だろうなどというのは嘘で、紀子は長電話が嫌いだった。
紀子が小さかった頃、かろうじて黒電話が家にあったのを覚えている。流線型のボディには可愛らしい服がかぶせられ、マジックテープを外せばダイヤルが現れるようになっている。ちょうどその部分が、これもかろうじて昔家にあった記憶のある陶器でできた豚の形をした蚊取り線香が口を大きくあけているイメージを持っている。今でこそアンティークとして扱われるが、子供心にどちらも高価なものに思えていた。
母親の電話の内容に見え隠れしている矛盾点は、子供の頃から子供に、どこでも一番になるよう心掛けるようにと教育されたことだった。
「いい学校に入って、いい会社に入って、そのために、今から一生懸命に勉強しておかないといけないのよ」
紀子には兄がいた。三つ年上の兄は、両親の期待を一身に背負っていたようだが、その余波は紀子にも移っていく。父親が高校までしか行けなかったことで、入った会社が中層企業である。仕事のわりには給料が安く、体よくこき使われているのだ。
父はそのことを気にしていないが、母はとても気になっているようだ。そのため、子供に期待をかけるのだが、どうして母だけが気にしているのかが分かった瞬間に、紀子は脱力感を感じた。
要するに世間体である。主婦仲間の他愛もない会話の中で、避けて通れない夫の存在、しかも仕事の話になると、とたんに肩身が狭くなる。父親の給料では少し無理をしているのではないかと思うほどの住宅街に引っ越した。一応、マンション住まいということで体裁を保ったつもりだろうが、今までの知り合いに対してはよくても、近所付き合いはなかなか難しい。子供から見ても、
――こんな簡単なことも分からなかったのか――
と思うほどだった。
世間体の話に対して男はとたんに冷たくなる。父親も一番辛いはずなのに、なるべく顔に出さないようにしている。だが、露骨に嫌な思いを前面に出したのが兄だった。
兄はそれまでの成績がとたんに落ち込み、何かが切れたかのように家では何も話さず、自分の部屋に閉じこもるばかりだった。ただ、男同士気持ちは分かるようで、父親が時々母に内緒で、兄を連れ出し、食事に行ったりしていたようだ。男同士の会話は想像がつかないが、兄がそれでもしっかりと勉強し、一流ではないがしっかり大学も卒業したことで、就職もそれなりによかった方だろう。家では母親だけが納得いかなかったようだが、家庭は表向き円満だった。
紀子はというと、世間体を気にする母親を毛嫌いしてはいたが、兄のように生理的に受け付けないほどではなかった。普通に無視していれば平気で、母は紀子だけが自分の味方だと大いなる勘違いをしていたようだ。
そのうちに母親は紀子に近づいてきた。露骨に嫌な顔をしない紀子の性格を知ってか知らずか、母は紀子と一緒にいる時が一番安心すると言ってくれた。その言葉を紀子は鵜呑みにしてしまい、
――お母さんは、寂しいんだ――
とかわいそうな人だという目で見るようになっていた。
いつしかそんな目で娘に見られていることに母は気づくかも知れないと思った。気が付けば、紀子に対して悪いと思うかも知れない。それだけ紀子は、まだ世間を知らなかったのだ。
自分がされて嫌なことは、他の人がされても嫌なはずだという基本的なことを忘れていた。というよりも紀子の場合は、自分が人と少し違っていると思っていた。人と同じ性格では面白くないという考えが元になっているもので、それだけ基本的な考えが欠如していたりした。
ただ、それは灯台下暗し、目の前にあるのに気付かないだけなのだ。明かりが灯れば見れるはず、だが、これこそが一番難しいことなのだ。まわりを見渡せばどこにも火などない。火のないところに煙は立たないというが、まさしくその通りで、どうやって灯台下暗しではなくすればいいか分からない。
紀子が都会の短大に進学すると言った時、一番反対したのは母だった。それはもうヒステリックになっていて、父も兄も、ここまで母がヒステリックになる理由が分からなかったに違いない。
紀子はこの時を機会に、母親から離れたかったのだ。母親と一緒にいれば、お互いによくない。しかも二人だけではなくまわりを巻き込むに違いない。紀子にしても、母親から離れることは、これからの自分の人生に大切なことだと思った。紀子と母親はあまりにも性格が離れすぎているからだ。
家を出ることで完全な解決にはならないだろうが、一度一人暮らしをすることで、自分を見つめ直すことができる。これが一人暮らしを始める最大の理由であった。特にヒステリックになっている母親と離れてみるのは、いい機会であった。
母親の性格は、紀子には手に取るように分かる。ちょっと情けを掛けるような目で母親を見ると、その目に敏感に反応し、媚を売ってくる。自分の仲間に引き入れようとするのである。情けを掛ける目で見た方は、一気に気持ちが冷めてしまい、二度と情けを掛けようと思わなくなり、徹底的な毛嫌いに変わってしまう。
今までにそんな人が何人いたのだろう。ここまで卑屈な性格を紀子は今までに見たことはない。それがずっと育ててくれた母親だというのだから、それこそショックが大きいというものだ。
それでも紀子が都会に出て、母親は少しずつ落ち着いてきたということだった。紀子は安心した。母親を残し、都会に出てくることで、置き去りにした意識があるからだ。母親の前ではそんな気持ちを表に出すことはないが、離れてしまうと、それが気になっていた。やはり、どこか母親を肉親として見てしまうのだろう。
どうしても離れないと、自分に危険が及ぶというわけではなかったので、中途半端な気持ちではあった。母親に対しての気持ちの中で、自分がしなければならないことが、一人になると、少しずつ見えてきた。母親が自分と同じ年頃、どんな気持ちで毎日を過ごしていたのか、想像してしまっている自分がいる。
しばらく母親から連絡はなかった、連絡をしてくるとしても、家での現状報告程度で、電話ではなく手紙だった。元々手紙を書くのは嫌いではないのだろう。あまり上手な文章とは言えなかったが、何とか状況を知らせたいという気持ちが見えていて、健気で微笑ましく感じられた。
――母にもこんな一面があったんだな――
作品名:短編集66(過去作品) 作家名:森本晃次