短編集66(過去作品)
それとも、古い時代のものが好きなのか、時代遅れと言われそうではあるが、どうしても最近の小説にはついていけない。ケイタイ小説なるものが売れていたり、作家年齢も中高生だったりと、未成年が売れる時代になってきた。
未成年でも書けるのだからと甘く見ているわけではないが、以前からのオーソドックスな小説を目指していると、幼稚にしか見えてこない。そんな幼稚な小説が売れて、オーソドックスなものが売れなくなった状況を憂いている人は賢治を含めて少なくはないはずである。
本屋から遠ざかる前は、夜になると本屋に行きたくなることがあった。ブックセンターが近くにできたことで、本屋を身近に感じるようになったからである。車のライトが眩しい道を、歩いて本屋に向かったものだ。
本屋で気に入った本を見つけては、近くの喫茶店で夕飯を食べるのが日課になっていた。アフターコーヒーもつけるので、少々の贅沢だがそれも悪くない。パスタのおいしい店だった。
乳製品が苦手な賢治は、クリームソースやチーズは食べれない。そのかわりトマトソース、オイルソースはいろいろな店で食べてみたが、一長一短、どちらがいいとは言い切れない。ワインに合うのはトマトソース、ビールに合うのは老いるソースと、勝手に考えていた。特にビールはドイツ製、どうも日本製ではイメージが湧いてこなかった。
喫茶店にしては珍しく、禁煙の店内では空気が新鮮だ。木目調の店内では、タバコの煙はそのまま壁の沁みになりかねない。タバコを吸わない賢治にとってはありがたかった。特に木目調の匂いには、縁側の匂いを感じさせ、小さい頃の懐かしさを思い出させてくれる。
冬の時期になると、差し込んでくる日差しが暖かいだろう。縁側の匂いを感じるなら冬の時期に違いない。
眠くなるかも知れない。元々本を読むのに何がネックだったかというと、活字を見ていて眠くなるからだった。眠くなるから先読みしてしまい、セリフばかりしか見ないため、ストーリーが頭に入らない。悪循環の繰り返しだった。
何かの証明に目覚めたのが小説を書く意義だとすれば、自分を発見したいという気持ちに目覚めたのが、読書だった。読んでいる時は、ストーリーに入り込んでいるので、どこが自分を発見することなのかと思いがちだが、無意識に比較している。比較対象は自分であって、時には本が反面教師であったりもする。
何かの証明というのが曖昧であるのと同じで、自分を発見するのも難しい。自分のことは自分が一番分かっていると思っていたことが、実際には分かっていないと気付いた時に、本を読んでみたいと思うようになったのだ。だからこそ、本を読むという行為も、賢治にとっては難しいことへの挑戦の一つなのだ。
自分を発見するというよりも、発掘するという考えに変わったのは、ある作家に出会ってからだ。
「これぞ大人の小説」
という雰囲気を漂わせた文章作法もさることながら、人を小バカにしたような内容も賢治にとっては新鮮だった。
作家の名前は、藤堂啓介。得たいの知れない作家というのも、センセーショナルだった。だが、なぜかファンは少なく、あまり一般評価もよくないようだ。
脳天をぶち抜かれたというのは、多少オーバーではあるが、間違いでもない。最後の数行でどんでん返しを食らう作風は、今までに読んだ小説にはなかったのだ。
プロローグで読者を引き込もうという奇想天外な出だしの小説はいくつかあり、共感を持ちながら読み進んでいったが、この作家の出だしはあくまでも静かだった。何が起こるのか予感させることなくさりげなく引き込まれていく作風に、どんどん時間を感じることなくページが捲られていく。
「食わず嫌い」
というわけだったのかも知れない。今まで知らなかった世界を垣間見るのは楽しみでもあるが、勇気も必要かも知れない。どこか頑ななところのあった賢治は、石橋を叩いて渡る性格でもあった。なるべく波風を立てたくない性格が、今の自分を作っているのだ。
「最近、空が綺麗ですよね。雲ひとつもなくて」
八重子は思い出したように話す。最初は厳粛に足を揃えて座っていたが、気がつけば足を組んでいる。ずっと考え込んでいた賢治の返事を待ちわびているうちに姿勢が崩れてしまったようだ。当然、無意識の行動である。
話題を変えることでその場の雰囲気を変えようとしてようで、それほど雰囲気が悪化してしまったのだろうか。長考に入ってしまった賢治を見て、話題がまずいと感じたのかも知れない。
「空なんて、最近見上げたことないなぁ。そういえば、ずっと下ばかり見て歩いているよ」
ため息が出そうな答えに、八重子はニコリともせず、
「寂しいわね。でも、空って見てると楽しいわ。この間、真っ青な空に糸を引くような飛行機雲がたなびいていたの。それを見ていると、絵を描いてみたくなったのよ。それから文房具屋に行って、絵の道具を買ってきて、最近は絵を描く時間が増えてきたわ」
絵筆を握って、キャンパスに向かっている八重子を想像するのは難しかった。活発なイメージがあったからだが、それでもじっと見つめていると想像がついてくるのは、自分だって小説を書くのだからというイメージからだった。
飛行機雲を思い浮かべてみた。三年くらい前に見た飛行機雲の残像が、瞼の裏に浮かび上がってくる。まるで昨日見た光景のように、実に鮮明だ。
――ひょっとして夢で見たのかな?
夢と言うのはきまぐれなもので、思い出したい時には思い出せないものだ。だから、詳しく思い出そうとしても、きっとそれは無理だろう。鮮明な夢などというのは存在しないというのが賢治の考えで、実際に鮮明に覚えていることなどなかった。もしそれが鮮明な夢を見たのだとすると、それは、誰か他人が自分の夢に介在したとすれば考えられなくもない。人から介在されることが賢治は嫌で嫌でたまらなかった。
何事も数字で割り切ってしまえると子供の頃には思っていた。時間が数字で割り切れるのだから、空間だって割り切れるはずだ。空を見上げる時はいつも、
――空までの距離を測ってみたい――
と考えたものだ。手を伸ばせば届きそうな空、どこまでも真っ青で透き通った空を見上げていると、空に吸い込まれそうな気がしてくるくらいだった。
――空に飛び込みたい――
と思ったこともあった。
子供の頃に読んだSF漫画で、空洞惑星に不時着した男がいた。空洞惑星の空洞部分の壁面に陸地があるという星で、見上げれば、空には反対側の陸地がある。地球型の惑星では信じられないが、彼らからみれば、地球の方が信じられないだろう。
彼らは浮くことができた。身体に空気を自由に溜め込むことができて、その勢いで空に飛び出し、反対側に行くこともできる。ただ、科学が進歩していないので、推進力は恐ろしく乏しく、飛ぶことはできても、進むことができない。星に順応した身体ではあるが、物理学に進化がついてこれなかった。
そんな星で優雅に泳いでみたい。地球の科学力なら、推進力など赤子の手を捻るようなものだ。
よく考えてみれば、地球人の考える空はどこにあるのだろう? 要するにどこからどこが空で陸地なのか、境目が分からない。
作品名:短編集66(過去作品) 作家名:森本晃次