短編集66(過去作品)
まわりの人は実際に知っている人は描きたくない。知っている人を描いてしまうと、主人公への目が主観的になってしまい、せっかく客観的に描こうとしている意図が狂ってしまう。
それではノンフィクションになってしまうではないか。
自分で描く小説は、まったくのフィクションでなければ描く意味がないと思っている。何もないところから生み出すこと、作り出すことを生きがいとする賢治にとって、研究も同じフィクションである。
――小説を書くということは、何かを証明したいからだ――
賢治はそのように考えている。
自分の生き方なのか、それとも研究に対しての自分と違うもう一人の自分の存在を確かめたいのか。もう一人の自分の存在という概念を感じるようになってから、モノを作ることへの執着が生まれてきたのであるし、研究をしようと思うようになったのだ。
開発という言葉、創造という言葉、それぞれ違った意味を持っているが、賢治にとっては、何もないものから生み出されるものという意味では同じくらいに好きな言葉である。二つの高さがかなり違う高層ビルが立ち並んでいる場所で、高い方のビルから見下ろした時の風景と、下から見上げた風景ではまったく違った感覚に落ち入る。恐怖感が襲ってくる上からの方が想像はつかないかも知れない。
だが、それぞれに遠いはずの距離感が実際よりも近く感じるものである。「五十歩百歩」という言葉が思い出される。高層ビルなので、この際「どんぐりの背比べ」というのはおかしいだろう。
喫茶店の中で、最近小説を書くことに目覚めた自分を思い出しながら、八重子と対峙している。八重子はなかなか喋ろうとしない賢治を見て、疲れが溜まっているのではないかと思っているようだ。
実際に賢治に対しての第一印象でも目にクマができているくらい疲れているようで、話を始めると以前の雰囲気が戻ってきた。八重子にも賢治と言う男性が、時々まるで別人のようになるのは分かっていて、その時に表情だけではなく、まるで別人になったような顔になっていることが気持ち悪くて、それが別れにつながる最大の理由だった。
もちろん、本当の理由など、言えるはずもない。特に、本人の顔はそれこそ鏡を通してでなければ一番分からないはずで、もしそんな話をしたら、話の最中、露骨に気持ち悪さをにじませた顔になるに違いない。
そんな顔で話などできるはずもない。だから、漠然とした理由を話すしかなく、それでもどんな顔ではなせばいいのか、八重子は悩んでいた。きっと、笑顔で話をしたのではないだろうか。八重子は今でもそう思っている。
賢治と別れたあと、八重子は数人の男性と知り合い、付き合ったようだ。賢治も八重子を見ているうちに、
――大人っぽくなったな――
と感じ、今さら失ったものの大きさを思い知らされていた。大人っぽくなったことが、自分以外の男からもたらされた愛情だと思うと、嫉妬に狂いそうになる。
だが、本当に他の男たちから、愛情を受けていたのであろうか。「オンナ」にしてあげられなかった賢治には、それだけでも八重子に対しての負い目を感じる。そして、その男がどんな男だったのかを想像してしまう。
想像しようとしても、難しかった。自分と似た雰囲気の男性であるわけがない。そうであってほしくないという願望もあり、同じようなタイプであれば、別れた時に、もう少ししつこくしてでも別れないようにできなかったかと後悔してしまうだろう。
賢治にとって八重子は、思春期の真っただ中であり、青春の始まりでもあった。別れてから、何度となく夢で逢ったような気がするが、八重子だと思っていた相手が、今では違う女性だったようにも思えてくる。
八重子と話をしている間は年相応であったが、夢を思い出しながら、小説を書くようになったことを考えていると、無口になっていった。すると、疲れが噴き出したかのように、見る見る老けて見えるようになっていくのを、八重子は見逃さなかった。
だが、八重子はもうビックリしていない。驚きもすぐに気にならなくなり、ただ、正面から見つめているだけだった。
賢治は最近、自分の存在理由について考えるようになった。小説を書くのもそのためであるし、研究が本当の存在理由ではないのかも知れないと考えるようになった。
タイムマシンなど、あまりにも漠然としたもので、理論的に可能なものでも、論理的にはどうなのだろう? 「パンドラの匣」という概念が頭にあるからだろうか。最初から胡散臭いと思いながらも教授を信じてみようと思っていたが、最近ではそれも信じられなくなった。
小説が現実逃避と言われるのであれば、それも仕方がない。誰かのために何かをしようという考えはないからだ。研究にしても自己満足のため、そう思って割り切ろうとしていた。
ものぐさな性格は子供の頃で、ものぐさだから記憶力がないのか、記憶力がないから、やる気にならずにものぐさになるのか、まるで「タマゴが先か、ニワトリが先か」の禅問答のようだ。
女性に対して興味が湧いてきたのも、人より遅かった。それも女性に対しての感情からではなく、誰かが女性といるのを見て、羨ましく感じたからだった。肝心なところで自分の感情の元になるものが分からなくなるのは、最初があやふやなことが多いからなのかも知れない。
そんな人間にタイムマシンなどという大それたものを扱わせていいものだろうか。自分自身でそう思う。小説を書くようになってから、思い出すことといえば昔のことばかり。それもいいことというには程遠く、それでも懐かしく感じるのだから、時々自虐的な感情が浮かんできても仕方がない。
小説を読むのも、なるべく恋愛小説のようなものにしようと考えたが、すぐにやめてしまった。読んでいて甘い恋愛などというのは、存在しないからだ。叶わない恋だったり、不倫だったり、最後は悲惨な話が多かった。
読んでいて歯軋りをしたり、汗が滲んできたりした。大人の世界の汚らしいものを見てしまったという気持ち、知らない世界を垣間見たことでの羨ましい思いという相対的な感情が渦巻いている。
本を読むことは、気持ちに余裕を持ちたいことから始まったはずなのに、読んでいてイライラしたり、余計な感情を増幅してしまうのは、主旨に反するものである。本屋で文庫本の背を見ることが楽しみだったはずが、次第に本屋から遠ざかった時期があった。
本屋といえば、今のようにチェーン店として古本屋が定着する前は、木造家屋かプレハブで造られた、中では怪しげなビニールに入った本が置いてあり、親父かおばさんが一人座布団の上に鎮座しているイメージが強い。さすがにはたきを持っている時代は想像がつかないが、おばさんの雰囲気は木造家屋からは伝わってくる。
古本屋ばかりに顔を出していたのは、よほど大きな本屋にでも行かないと、読みたいような本が置いていないからだった。ブックセンターのようなものは、大通り沿いに数件あったりして大きなフロアに作られているが、意外と文庫本など読みたいと思う本に恵まれることはない。どうしてもスーパーと同じように売れ筋を考えての品揃えなのか、それだけ賢治の読みたいと思う本は、マイナーなものなのだろう。
作品名:短編集66(過去作品) 作家名:森本晃次