短編集66(過去作品)
言い訳がましくなってから、忘れようという意識が働くというのは、飛躍しすぎである。しかし、忘れたいと思うことが言い訳の中にあったとするならば、理屈も通る。理屈も理由も自分の中で消化できないと、いつの間にか忘れることが楽だと、安易な方に流れてしまうようになっていた。
自分の気持ちが分かるようになってから、時々気持ちに起伏の激しさを感じる。起伏が激しいと、
――躁鬱症なのかも知れない――
と感じる。
賢治だけに限ったことではないだろうが、躁から鬱への変わり目の時に、無性にイライラしてしまうことがある。まわりのものがすべてモノクロに見えてきて、そのくせ、夜になると、視力が上がってくるから不思議だった。
そんな時、若者が群がっているのを見ると腹が立つ。全体を見つめているから腹が立つわけではなく、いつも端っこにいて目立たないようにしている奴が気になって仕方がなくなり、そいつに腹が立ってくるのだ。
人の顔を見るのも嫌で、一番嫌なのは、鏡を見ることだった。ただでさえあまり見ることのない自分の顔、気分が優れない時ほど、見たくないものはない。
自己嫌悪に陥ってしまうと、人恋しい気分になるにも関わらず、人と話したくないといった矛盾した気分にさせられる。足が攣ったりした時など、誰からも触られたくないという感覚になることがあるが、その気分に似ている。
人と話さない時間が長いと、物忘れが激しくなる。人と話すことで、自分の中にある言い知れぬ不安が増幅され、人としての感情がまるで他人事のように無関心になってしまう。その時々で、まったく違う人間になってしまう気がしてくる。
そんな時、鏡を見ると自分では意識していない感情が表情に表れていたりする。楽しくないのににやけていたり、嬉しくないのに、満足そうな顔をしていたり、元々感情を打ち消そうとしているはずなのに、どうしてそんな表情になってしまうのだろうか。
動物園で一緒に撮った写真、学校の行事である運動会や学芸会での写真、それぞれでまったく違った顔をしている。表情が違うだけではない。別人になってしまっているのだ。他の人が見ても違う人に見えるという。友達から指摘されて、気付いたことだった。
人とあまり話さなくなった原因として、一つにはこのことがある。
友達は、賢治の気持ちを知ってか知らずか、
「お前はいろいろな表情ができるみたいだな」
悪気がなさそうであるが、それだけに本人にとってはショックである。平然として話す顔には余裕が感じられ、余裕が優越感に見えてくる。劣等感を無意識に感じることの多かった子供の頃、またしても意識の外に劣等感が見え隠れしている。
いろいろな表情ができるわけではなく、勝手にいろいろな顔になっているだけだ。他の人から見て、別人のようには見えないのだろうか。そう考えれば、表情に余裕があるのも頷ける。ただ、賢治が一人で迷走しているだけだ。
写真を見ていて、賢治の表情に余裕がみなぎっている。それも写真を見るのが嫌なわけでもある。別に余裕があるわけでもないのに、「いい」顔に見えてしまう。表情が豊かならまだ分かるのだが、いつも表情は同じであった。
そう思って友達を見てみると、皆表情が同じに見えてくる。顔の作りが違うだけで表情が似ているから、同じ顔に見える人もいた。それなのに、自分の場合はどうしてことごとく違う顔に見えるのだろう。同じ写真という平面上で比較ができないからである。
写真を並べてみればどうだろう?
同じ顔に見えてくるから不思議だった。元々同じ顔なのだから当たり前なのだが、自分の意識の中にインプットされた顔が、違う写真を見た時には違ったものになっている。記憶力の弱さが影響しているからに違いない。
賢治は、記憶力の弱さを気にするようになってから、小説を書きたいと思うようになってきた。小説の書ける人間は、尊敬に値すると思ったからだ。
小学生の頃は、本を読むのが嫌いだった。苦手だったからである。当然といえば当然だが、覚えられない人間が、読み込んでいくうちに最後まで、最初のことを覚えているというのも難しいというものだ。
それでも何度も読み返してみようと試みた。頭に入ってこないわけではない。なぜ覚えていないかを考えると、読んでいるその時々に集中しすぎる傾向にあることに気付いた。だから覚えられないのだ。
あまり肩を張る必要もないのに、力が入ってしまい、緊張が震えになることもある。覚えられないことで適当な態度を取ってしまう自分を、まわりがどう見ているかが気になるからである。
どうしても適当になってしまうと、判断力を鈍らせる。そんな自分に対して賢治は、
――何かをしなければ――
と感じた時に、本を見ているだけで気持ちに余裕ができてくる気がした。
小学生の頃、本を読んでいて、どうしても忘れてしまいたくないので、セリフばかりを拾い読みしていた。セリフの少ない本は、最初から読まないようにしていたが、セリフだけの本など存在するわけもなく、少しでも想像しながら読んでいこうと考えるようになった。
本を読んだからといって、小説を自分で書けるようになれるわけではない。憧れと現実は程遠いもので、実際に原稿用紙を前にして書けるほど簡単なものではなかった。
想像が浮かんでこない。小説を読んでいて、作家先生の作風には個性があるが、基本となる作法は、同じだと思っている。根幹に関わる部分が大きければ大きいほど、個性が出せるものだと感じ、やはり小説を書いてみたいと考えるのだった。
小説とは人を描く人間ドラマのように言われるが、賢治の中では、デッサンや風景描写が主体で考えていた。そういう意味では人間描写もまるで絵画のような感覚であった。目の前のことから幅を拡げていくというよりも、全体から次第に視野を狭めていく手法を考えるようになっていた。
そのためには一人で篭っていては何も書けない。表に出かけて、実際にデッサンするイメージでメモを取る。時には言葉に出してみるのも一つの手であった。
だが、最初に書いた小説のイメージは自分の部屋だった。目覚めの時間、まだ眠っていたいといういつもの気持ちに誘われながら、気がつけば日曜日だった。早く起きなくてもいい日に起きてしまったことが損なのか得なのか、覚めかけている頭が考える。
日曜日といっても、何もすることはない。遊びに行くとしても、相変わらず決まった友達のところで、毎回同じようにゲームに勤しむくらいだ。友達はゲームに執着があるようだが、賢治はいい加減飽き始めていた。
日曜日の目覚めは、いつもその日に何をしようか考えることから始まる。目覚めがハッキリしないまま半分目を瞑っている。真っ暗にしているはずなのに、遮光カーテンから薄っすらと漏れてくる光を感じながら、あてもなく考えるので、結局戻ってくる場所はいつも同じだった。
だが、その日は何をしようかを考える前に、明るさを感じていた。身体が重たくなっているのに気付くと、どこに出かけるにしても億劫だった。
作品名:短編集66(過去作品) 作家名:森本晃次