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短編集66(過去作品)

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 人間だけの問題ではなく、さらに大きなくくりとして「地球人」と表現するが、その相対は、「宇宙人」である。よく考えれば地球人だって宇宙人ではないか。宇宙人が存在していてそのことを聞けば、何と言うだろう? 実におもしろい。
 宇宙人という考え方でも、それが知的生物だという保証はどこにもない。生物が存在すれば、それは皆宇宙人である。厳密に専門的な科学者なら、しっかりと分けて考えるだろうが、研究に従事していない人は一くくりにしても不思議ではない。
 地球では人間のような知的生物と、それ以外を厳密に分けて考えるくせに、宇宙人に対しては十把一絡げ、それこそ自分中心の考えと言ってもいいだろう。
 幅を広く取ってしまったが、人間の中でも自分と、そして自分に影響をハッキリと与えてくれる人たち、さらにそれ以外と厳密に分けている。それは自分と、自分の肉親でも同じ分け方をしても、仲間はまったく違った人たちだ。
 人間は最終的には自分のことしか分からない。だが、他の生物はいかがであろうか?
 自分をどれだけ知っているのか、あるいは知らないのか、本能がどのように働いているのか興味があるというものだ。意外と自分で自分のことを分かっていないのは、人間だけなのかも知れない。
 自分で自分を知らないから、まわりも分からないと思ってしまう。幸福な人間は、自分で努力して得たはずの幸福であっても、自分を知らないことで、不安になってしまい、誰も信じられなくなり、下手をするとノイローゼに陥ってしまう。
 幸福な人間に対してはまわりからの嫉妬の眼、妬みだけではないはずなのに、妬みだけしか目立たない。そんな風にしか感じることができないのも人間の本能で、猜疑心の矛先が自分に向いているのだ。
 そんな時にまわりなど見えるはずもない。殻に閉じこもってしまって、最後には一瞬にして不幸のどん底のような気分になる。それでもまわりには幸福にしか見えず、その視線を痛いほど感じることで、ジレンマが起こり、ストレスが溜まり、ノイローゼになる。
「本当に人間が幸福になどなれるはずはない」
 これが賢治の持論でもあった。
 だが、その考えは破滅的で、建設にはまったくそぐわない。これ以上成長しないと言う気持ちとどちらが辛いのか、そのことを最近考えるようになった。
 年齢的にはまだまだこれから成長していけるので、成長がなくなるということにピンとこない。だが、賢治はかつて一度、
「俺は幸福なんだ」
 と、感じたことがあった。他愛もないことで、すぐに考えるのをやめたが、それも幸福を持ち続けることへの不安が防衛本能を先立たせ、ジレンマを起こさせなかった。賢治はそのことを自分の中で消化している。難しい問題ではあるが、ずっと考えないでいた。
 教授と一緒に研究するようになって、心理学的なことはまったくの畑違いなのだが、自分の頭の中だけで考えるようになったのは、決して悪いことではない。時間も一緒に考えることは漠然とした研究とは違い、中心が自分にあることで、自分からまわりへと広げられることだった。
 しかし、その果てしない考えをどこかで制御しないといけないと、自分でセーブできている間は、苦痛はないだろう。どこかで制御できなくなることへの不安がないわけではない。
 それが教授との研究にシンクロしてしまって、今の悩みにつながっている。タイムマシンが「パンドラの匣」であるならば、今考えていることが本当に間違っていないか。また、それが自分にとっての「パンドラの匣」、いや、浦島太郎の「玉手箱」なのかも知れない。
 どちらも開けてはいけないもの、「玉手箱」に関しては、本当に開けてはいけないのかを考えることもあった。
「開けるべくして開けたのだ」
 これが玉手箱に対しての賢治の考え方だった。

 賢治が以前から気になっていることがあった。元々写真に納まるのが嫌いなタイプであった賢治だったが、それは他の人と同じように行動するのが嫌な性格が反映しているからだった。
 子供の頃によく連れて行ってもらった動物園。親父はあまり写真には興味がなかったにも関わらず、お袋が写真を撮りたがっていたのだ。親父は写真に限らず、何に対しても興味を持たない性格で、子供の前でもあまり笑ったりする方ではなかった。
 そんな父親を見て育ったからか、笑顔を出し惜しみするくせが賢治についてしまった。出し惜しみというよりも、出すことで弱みを握られるように思えてくるからだ。被害妄想もはなはだしいとは思うが、遺伝なら仕方がない。
 遺伝ではないのだろうが、行動パターンが似ていた。嫌いなものから先に食べて、好きなものを後に食べる性格は、遺伝によるものだと考える方が気が楽だったりする。遺伝というものを考えるようになったのは、人ごみを嫌うのが露骨に感じられるようになってからのことだった。
 子供が露骨に人ごみを嫌うのは珍しい。大人になれば、男と女でパターンが違うが、それぞれに人ごみを嫌う雰囲気も出てくる。男は表情に現れ、女は態度に現れる。人ごみに対してだけではないが、男も女も生理学上、同じパターンが多いのかも知れない。
 特に思春期には行動が気になるもので、相手が男子であっても、女子であっても、違った意味で気になってくる。相手が親であると、見下ろされているという意識が強く、怒られるのではないかという意識が芽生える。子供なら仕方がないことだろう。
 動物園は母親が好きだった。特にサル山が好きで、いつも一番時間を掛けて見ていた。サル山を見ている時の顔は、目が輝いているように見えた。どうやら親子を見つめているようだった。
 親の話、つまりおじいさん、おばあさんの話をあまりしたがらないお袋には、親に対しての愛情がないものだと思っていたのだが、子供の賢治には分からないまでも、お袋のサルを見る目を見つめていると、自分がお袋の目から視線を離せなくなってしまっていることに気付く。
 視線を離してしまうと、その間にお袋がどこかに行ってしまいそうな不安に駆られてしまっていた。気になるものから視線を反らすことは、不安を駆り立てるだけだという意識が子供の頃から根付いていたのである。
 きっと、臆病な性格がそうさせるのだろう。大人になっても視線を反らすことの怖さは身に沁みて分かっていて、特に思春期の女性に対しての視線は、相手に失礼になることであっても、どうしても我慢できなくなる。
 目をパチクリさせたり、目を細めたりして、目が悪くて見えないふりをすることで、何とかごまかそうとする。後になって後悔と自己嫌悪に襲われるが、すぐに気にならなくなる。喉元過ぎれば熱さも忘れるというわけだ。
 だが、肝心なことまで覚えていないようになると困ったものだ。暗記物のテストなどには影響しないのに、覚えていなければならないことを忘れてしまって、よく先生や親から叱られたものだ。
 これは小学三年生くらいの頃から始まったもので、それまでのあまりモノを考えることをしなかった時には感じなかったことだ。
 何かをするのに、必ず理由が必要だと感じていた時期、それが小学三年生くらいまでだった。言い訳のためではなく、純粋に理由を求めていた。混じり気のないとはそういうことではないだろうか。
作品名:短編集66(過去作品) 作家名:森本晃次