「つかさ」と「つばさ」
緒方先生は不安がすぐに顔に出るタイプだった。なるべく隠そうとはするのだが、隠そうとすればするほど、彼女に近しい人には簡単に悟られてしまう。
彼女のことを、
「分かりやすい人」
と表現する人もいれば、
「いやいや、何を考えているのか、まったく分からない」
という人もいる。
緒方先生は情緒不安定になれば、その性格が短期間で変わってしまうことがあったが、二人はそれを言っているのではないようだ。
前者の分かりやすいと思っている人は彼女に比較的近しい人で、何を考えているのか分からないと言っている人は、彼女からは遠い存在の人だった。
ある一線までくると、彼女のことが本当に分かるようになるらしいのだが、その線から外ではまったく彼女のことを分からないらしい。それだけ他人事のようにアッサリと見られてしまい、存在すら意識されなくなってしまうようだが、逆に近くにいれば、その存在感は抜群で、それまで存在感を感じることのなかったのがウソのようだ。
だが考えてみれば当たり前のことであり、それまで意識していなかった度合いが大きければ大きいほど少しでも印象に残れば、それまでの存在感がウソに思えてくる。それだけに、
「相手のことがよく分かる」
と、思いたいのだ。
緒方先生のレズっ気が、ある一線を超えると、相手に訴える潜めていた何かを表に出そうとするのかも知れない。そのオーラと彼女を見つめる目線とがピッタリ合うことで、分かりやすい人間に感じさせるのだろう。
先生になってから、さらにネガティブ思考が加速していた緒方先生にとって、彼女のそばに寄ってくる人は少なくなった。二年目からは担任になったのだが、担任になると余計に生徒に近い距離から接しなければいけないと思うようになり、まわりにいる生徒に対して自分が、
「先生として接しているのか、一人の人間として接しているのか、分からなくなってきた」
と感じるようになっていた。
本当は先生として接しなければいけないのだが、その微妙な距離をまだ分かっていない。遠すぎると生徒の本質が分からない。近すぎて思い入れ過ぎても、生徒それぞれで事情が違うので、それに対応できるだけの余裕を自分が持てるかどうかが不安であった。
不安を感じながら生徒を見ていると、男子生徒よりも女生徒は気になってしまっている自分に気付く。
一度、男子生徒の一人から告白されたことがあった。相手は普段から引っ込み思案であるが、別に問題を起こすようなことのない、要するに目立たない生徒だった。緒方先生も彼のことを意識しているわけでもなく、手紙を貰って正直ビックリしてしまったのだ。
「どうして、私なんかに?」
彼に視線を向けたことなど一度もなかった。教室を見渡した時に、ちょこっと視線に入る程度だった。
しかも、彼の視線を感じたこともなかった。手紙を出して告白してくるほどの想いがあるなら、熱い視線をもっと浴びてもよかったのではないか。
緒方先生は彼のことを無視し、手紙を黙殺した。すると、彼はある日、先生を待ち伏せし、
「どうして、僕の手紙を無視したんですか?」
と詰め寄られて、緒方先生はパニックになった。
「だって、あなたは生徒なのよ。それなのに教師に恋をするなんて許されないわ」
と答えていた。
言っていることはもっともだが、それを承知で告白してきている相手に通用するはずもない。
しかも、この言葉を吐いたのが緒方先生自身だということが問題だった。
「この言葉に一番ふさわしくない人間がこの私なんだ」
と、我に返ってそう感じた。
そう思うと、もう彼女には目の前の生徒の姿は映っていない。完全に上の空になっていて、生徒が何を言おうとも、視線は明後日の方向を向いていて、虚ろな状態になっていた。それを見た生徒は、
「こ、こんな顔は見たくない」
といい、それを聞いた先生がまったく無表情であることに完全に落胆したようで、
「俺はこんな先生を好きになっていたのか」
と言って、先生を突き飛ばし、自分は急いでその場から駆け出していった。
一人残された彼女は放心状態のまま、どれくらいその場にいたのだろう?
気が付けば、警官に身体を揺すられていた。
「大丈夫ですか?」
ハッとして気が付くと、
「あ、ええ、大丈夫です」
「何かあったんですか?」
という警官の様子を見ると、この状況が何から生まれたものなのか、まったく分かっていないようだ。
「いえ、何もありません。少し眩暈がしただけで、大丈夫です」
「たまに眩暈がすることあるんですか?」
と聞かれて、
「ええ、たまにですけどね。大丈夫なので、ありがとうございます」
と言って、普通に立ち上がったのを見て、警官もホッとしたのか、
「何かありましたら、交番までお越しください」
と一言言って、その場を立ち去っていった。
幸いにもまわりには野次馬は誰もおらず、この状況を知っている人は誰もいなかったようなので、緒方先生はこの日のことを、
――墓場まで持って行こう――
と感じたのだった。
そんなことがあって、ますます男性不信に陥り、自分が女性を好きなんだということを再認識した。幸いなことに例の男子生徒は二度と緒方先生の前に姿を現すこともなく、ただの目立たない生徒に戻っていた。緒方先生も何事もなかったかのように、それ以降を過ごしたのだ。
どうしてもネガティブさが止まらずに、そんな時に男子生徒からの告白事件というショッキングなことが起こったことで、鬱状態に入る一歩手前にまで行っていた。
それまでに鬱になったこともあった緒方先生だったが、
――今度も鬱になるんだろうな――
となりゆきに任せる他はないと思っていた。
だがそんな時彼女の目に入ってきたのが、中江つかさだった。
彼女は品行方正で、天然なところもあったが、成績もよく、先生として見ていると、
「優秀な生徒」
というイメージを強く持っていた。
注意をしておかなくても、彼女は大丈夫だと思わせる何かが彼女にはあり、それはきっと緒方先生の想像する行動パターンが中江つかさにピッタリと嵌っていたからなのかも知れない。
――中江つかさは、自分にとっての憧れの存在なのかも知れない――
学生時代から、どんな女性になりたいかということをよく考えていたが、最近ではめっきりと考えなくなってしまった。学生時代を思い出してみると、中江つかさは自分が学生時代になりたいと思っていた性格を思い出させる女性だったのだ。
どんな女性になりたいかということを考えなくなったのは、高校の時、先生と破局を迎えてからだっただろう。それまで緒方先生は、自分が成長するにしたがって、一歩一歩階段を昇っていると自覚していた。しかし、先生との破局によって、初めて挫折を味わったのだ。
その挫折が彼女に憧れを忘れさせ、その代わりにネガティブ思考を植え付けた。そのことを理解しているつもりでいたが、そうではなかった。なぜなら、自分が憧れを持っていたということさえ意識しないようになっていたからだ。
時々鬱状態に陥りそうになることがあった。
「このままいったら、鬱状態だわ」
作品名:「つかさ」と「つばさ」 作家名:森本晃次