「つかさ」と「つばさ」
と、ある日後ろから声を掛けてくる女生徒がいて、ビックリして振り向くと、そこには坂田つばさが立っていた。
その様子ははにかんだようにも見えるが、恥かしさを隠そうとしているということは分かった。普段から暗くて、何を考えているか分からない彼女の恥じらいの表情など見ることはできないだろうと思っていただけに、そのことも緒方先生をビックリさせた。
「どうしたの、一体」
と、ビックリした表情をなるべく表に出さないようにと、緒方先生は淡々と答えた。
「あの、実は私誰かにいつも見られているような気がして……」
と言って、言葉を切った。
その様子が不安から来ているものなのか、気持ち悪さから来ているものなのかはすぐに判断できるものではなかった。
彼女の言っていることは、自分が感じていることの裏付けでもあり、信憑性と言うとこれほどハッキリしたものはないだろう。
――やっぱり――
緒方先生は自分の目に狂いがなかったということを感じたと同時に、棚橋つかさに対して、
――もっとうまくやればいいのに――
と、教師としては思ってはいけないことを感じていた。
「その視線が誰かのものだって分かっているの?」
というと、
「いえ、分からないです」
と答えた。
分かっていて相手に気を遣っているのか、それとも本当に分かっていないのか分からなかったが、どっちなのかによって、坂田つばさの本当の姿が見えてくるような気がした。緒方先生は、
――分かっていない方がいいわ――
と感じていた。
この時、緒方先生は坂田つばさに対して嫉妬を抱いていた。しかし、まだその頃は軽い嫉妬で、自分が教師であるという立場を考えると、嫉妬を表に出すことのリスクを感じないわけにはいかなかった。
一方の棚橋つかさの方は、まさか緒方先生が自分のことを意識しているなどと思ってもいなかったので、その視線は坂田つばさに注がれた。それは何かを忘れようとでもするかのように一途であり、本人も忘れようとしていることが何なのか、すでに分からなくなっていた。
棚橋つかさは、一つのことを思いこむと、他のことが見えなくなるタイプの女性だった。女性というと、一つのことを思いこむと他が見えないという性格は男性に比べて多いのかも知れない。
そんな棚橋つかさが以前に一途になったのは、他ならぬ緒方先生だった。緒方先生は棚橋つかさが思っているほど、その態度には冷淡なものがあり、先生とすれば、精一杯に寄り添っているつもりであったが、それはしょせん、教師としてのものだった。
だが、棚橋つかさはそれでは満足できなかった。自分が好きになった相手には、自分が思っている以上に自分のことを好きになってほしいと思っているのだ。そういう意味では棚橋先生の気持ちが分かりかねているうちに、坂田つばさが気になり始めたのだ。
棚橋つかさが坂田つばさを意識しているということに気付いているのは緒方先生だけであろう。
棚橋つかさのことは緒方先生も好きだった。だが、それは教師として好きだというだけだと思いこんでいた。いや、思いこんでいたというよりも思いこもうとしていたと言った方が正解かも知れない。
棚橋つかさにとって、緒方先生は恋愛対象のようなものだったのだが、愛おしいと思ってはいたが、どうしても先生と生徒という立場を思い図らんとすれば、棚橋つかさを直視することができなくなっていた。
――彼女は異常なのかも知れないわ――
とまで思ったが、それは自分にも言えることで、棚橋つかさの異常なところに気付く自分が怖くなってきた。
――彼女とは一定の距離を置いておかなければいけないー―
と思うようになった。
棚橋つかさは、本当は緒方先生の思っているほど異常ではなかった。むしろ、健気なところはウブだったのだと言ってもいいだろう。しかし、緒方先生が警戒すればするほど棚橋つかさは自分の殻に閉じこもるようになり、持ち前の勘の鋭さからか、自分が異常なのではないかという危惧を抱くようになり、それが緒方先生の視線によるものだと思うようになると、棚橋つかさの方も緒方先生を避けるようになってきた。
――あれ? どうしたのかしら――
と、それまでとは違う棚橋つかさの態度に緒方先生も気づくようになる。
それまで棚橋つかさの方が、冷淡な緒方先生に疑問を抱いていたが、今度は緒方先生が少し変わってしまった棚橋つかさが気になってきた。
避けるようにはしていたが、その動向はずっと見ていたので、ちょっとした誰にも気付くことのできないような微妙な違いも、緒方先生には分かっていたのだ。
棚橋つかさは、憧れてはいるが、それまでの先生と変わってしまったことで、先生から裏切られたのではないかと思うようになった。
――裏切りというのとは少し違うのかも知れないけど、私と明らかに違う方を向いているわ――
と感じていた。
その思いが次第に先生への疑念に変わって行き、それが先生から目を背けることになった。
その様子が冷淡に見えたのだろう。そして棚橋つかさは、その時、なぜか自分が女性を気にするようになることを予感していたのだった。
そんな時に転校してきた坂田つばさが、棚橋つかさには新鮮に見えた。
緒方先生は、転校してきた坂田つばさに対して、最初からあまり好きではなかった。
彼女は自分たちとはまったく違うタイプの女性で、彼女がどこか中心にいるというカリスマ性があることに気付いた。
かと言って彼女にリーダーシップがあるというわけではない。どちらかというと、カルトな集団をまとめることができるような危険な香りを秘めていた。
坂田つばさは、誰とも関わろうとはしなかった。学校でも大人しくいつも一人でいたので、
――この人に関わろうとする人も出てこないわね――
と思うようになっていた。
しかし、いつも気にしていた棚橋つかさの視線の先に、想像もしていなかったことだが、そこに坂田つばさがいたことを感じた時、ビックリしたというよりも、
――なぜなの? どうして彼女なの?
という気持ちが強かった。
棚橋つかさと緒方先生の確執が、緒方先生の想像もつかないような行動を、棚橋つかさに取らせてしまったと、緒方先生は感じた。
坂田つばさという女性を、緒方先生は直視できなかった。ずっと見ていれば彼女のペースに引き込まれそうで、それが怖かったのだ。
実際に彼女のペースに引き込まれた人が、彼女の前の学校にいたようだ。まだこの時誰にも知られていなかったが、坂田つばさがこの学校に転校してきたのは、前の学校で坂田つばさのペースに引き込まれて、にっちもさっちもいかなくなったことで、学校を退学しなければいけなくなった生徒がいたからだった。
坂田つばさ本人には、別に悪いところがあったわけではないが、噂というのはあることないこと吹聴されて広がるものだ。
しかし、この時は、
「あることあること」
だった。
作品名:「つかさ」と「つばさ」 作家名:森本晃次