「つかさ」と「つばさ」
先生はどちらかというと、はぐらかすのがうまい方だと思っていた。しかし、この場でははぐらかすというよりも、正直に話しているように思えてきた。先生が正直に話をしてくれていると思ったのは、その気持ちを素直に信じると、生徒として信頼関係が持たれているという先生の立場からの考えに思えてきた。冷静になっているからこそ、感情を隠そうとせず表に出している様子。それはおどけているようにも見えることで、こちらが真剣にならないようにという配慮からの行動なのかも知れない。
しかし、相手が調子に乗りやすい人だったり、感情に身を任せるタイプの相手であれば、余計な勘違いをしないとも限らない。そう思うと先生の態度には単純に図ることのできない何かがあるように思えてならなかった。
どう思っているのかって聞かれて、それに答えないでいると、言葉について聞いてくる。先生の得意とする分野なのだと考えると、術中にはまってしまったのかも知れないとも思うが、憧れているというと、好きという言葉をこちらからはぐらかせたような言い方に対して、素直に、
「照れちゃうじゃない」
と返してくるのは、素直な気持ちなのか、それともはぐらかしなのかが分からない。
両親は、以前の仲良くしていた頃を思い出したようで、家庭内は平然としている。
姉の死に対して、お互いに気を遣うあまり、その思いが考えていたほど相手のためになっていないことに気が付いて、その憤りから衝突してしまっていたのだろう。その距離が近ければ近いほど、衝突は激しいのだろうが、落ち着いてくると、元々近いことから、繋がりを取り戻すまでにはそんなに時間が掛からなかったのだろう。
棚橋つかさは、そんな両親を見ながら、
――人って、あんな風に落ち着いてくるものなんだな――
と感心した。
今まではそんなことを考えたこともなかった。子供心に大人になってきた自分を感じたものだ。実際に大人になってきたと感じると、その時まで考えたことのなかった理由として、自分が他人事のように感じていたからだと思うようになった。
先生に自分の考えを話すと、
「他人事って甘えから来ているんじゃないかって思うのよ。それは自分で考えられないという甘えを相手に押し付けているという感覚ね。だから、私は他人事に思うことはあまりいいとは思わないんだけど、それを下手に咎めることはしないの。咎めるとしてもその理由が他人事だとすれば、どう言えばいいのか分からないでしょう? つまり、その人が甘えているのであれば、甘えないように仕向けてあげるのが必要だと思うのね」
「どうやって?」
「甘えている人って自分が甘えていることを分かっていないのよ。でも完全に分かっていないわけではない。心の中でもしかしてって思っているのかも知れない。そう思うと、少し時間をおいて、甘えの正体を突き止める。それがこちらに対しての甘えなのか、それともまわり全体、つまりは成り行きに対しての甘えなのかによって違ってくると思うのね」
確かにそうかも知れないと思った。
「どう違うんですか?」
「特定の人に対して甘えが出ている時って、意外と自分が甘えているということに気付いているものかも知れないわね。逆にまわりに漠然と甘えている時は、自分に甘えが出ていることを本当に知らない。甘えを感じている人は、自分への反発心から、甘えを認めようとはしない。まわりに対してもそうだけど、特に自分で自分から認めたくはないと思うのよ」
先生の言うことは半分分かっているつもりだが、半分は分からない。
それは、最初の半分が分かっていて、後半が分からないというわけでもなく、半分半分というよりも、理屈の中に、自分では完全に認めることのできない何かがあると感じたことだった。
「百里の道を進むのに九十九里を行って半ばとせよ」
という言葉があるがまさにその通り、普段ならほとんど理解できているように思えることも、全体から見渡せば、ほぼ半分くらいしか理解できていないと考えるのが普通ではないだろうか。
棚橋つかさは、自分が甘えていると、ハッキリと言われた気がした。誰からも言われたことのない言葉だったが、考えてみれば、今までに一度も言われたことがなかった方が不思議なくらいであろう。
それこそ、他人事だった。
――俺に甘えなんかないんだ――
と、ハッキリと感じたわけではないが、
――甘えなんて言葉は、考えを及ぼすほどのものではない――
と思っていたのだ。
人が他人事のような態度を示した時、それが他人事だとすぐに分かるようになっていた。分かるようになったことから、
――自分に甘えなんかない――
と思いこんでいたのだろうが、普通に考えれば、
「甘えがあるからこそ、他人事なのかどうか分かる」
という考えも正解ではないだろうか。
「そういえば、棚橋君にはお姉さんがいたんだって?」
とふいに聞かれた。
棚橋家に姉がいたことは普通なら知らないはずだ。棚橋つかさが中学に入学する前に姉が死んだのだから、家庭環境に姉の文字は出てこないはずだ。
「どうして、先生は知っているんですか?」
「あら? そうだったの? 先生、一瞬別の生徒と勘違いして言葉にしてしまったので、今謝ろうと思ったんだけど、やっぱりいたのね?」
本当なら、学校には関係のない家庭の事情は、プライバシーの侵害に当たりかねない問題なので、デリケートな問題のはずである。先生とすれば、
「申し訳ないことをしてしまった」
とばかりにどうやって生徒に詫びを入れて、事を荒立てないようにしようかということを考えるだろう。
しかし、先生はそんなことはお首に出すこともなく、
――本当は天然なんじゃないか?
と思わせる態度をつかさに取る。
しかし、それ以外の場面では、先生はやはり凛々しい態度を取っていて、憧れに値する人だった。それを思うと、
――先生の本質はどっちにあるんだろう?
と考えさせる。
先生が本当に自分のほとんどを曝け出して接してくれているのか、それとも半分も曝け出していないのかが、気になってくる。ここでの半分の違いは、普通に考える半分よりも大きなものではないか。たまに感じる阿修羅面のように、すべてを半分で割り切ることはできないと思っていた棚橋つかさだったが、先生はどっちなのかと疑念が残ってしまった。
半分という考え方は、夜と昼をまず思い浮かべてしまう。それは半分半分という考えよりも、まず考えることとして、
――循環性のある半分――
という考え方だ。
――昼が来て、夜が来る。夜が明けてから昼を迎える――
というような循環性だ。
しかし、他の思い浮かぶ半分という考えに、循環性はあまりない。唐突に思い浮かんだことというと、それが循環性のある昼と夜ということである。
だが、他の半分というと今まではあまり考えることはなかったが、阿修羅面を思い浮かべるようになって、
「男と女」
という発想に繋がった。
作品名:「つかさ」と「つばさ」 作家名:森本晃次