「つかさ」と「つばさ」
姉は死んでからかなり経っている。自分の中で姉の成長は止まっていて、自分だけが成長している。
――姉なのに、妹みたいだ――
イメージは妹なのだが、やはり姉は自分にとって追いつくことのできない存在だ。
しかも、死んでしまっているので、追いつけたのかどうか、判断材料がないため、永遠に追いつけなくなってしまった。
もし、追いつける時があるとすれば、
――それは自分が死ぬ時だ――
ということになるのであろう。
そんなことを思っていると、姉が帰ってきてくれたような安心感を胸に抱いた。その時、ハッキリと、自分の中にいる別人が姉ではないことを確信したのだった。
――お姉ちゃんじゃなかったんだ――
という思いは、ホッとした感情なのか、残念な思いなのかハッキリとしていなかったが、ハッキリとしていないということは、おそらくそのどちらも気持ちの中にあるからではないだろうか。
それから、姉のことを感じることはたまにあったが、自分が姉の死を引きずっているという感覚はなくなっていた。スッキリした気分にもなったが、少し寂しさもあった。この寂しさが、残念な気持ちの裏返しでもあったのだろう。
――じゃあいったい、もう一人の別人って誰なんだろう?
自分の中にいるのだから、自分以外のはずはない。
――気のせいだと、何度思おうとしたか――
実際に気のせいだと思うと、一時期、もう一人の別人を感じることはなくなっていた。
しかし、すぐにもう一人の別人を感じたのは、明らかにもう一人の自分が別に存在していて、自分の中に二人の人物がいることを思い起こさせた。
その時に感じたのが、アニメで見た左右に男女の顔を持った神だった。他のアニメで、首から上に三つの顔がある悪魔を見たことがあったが、それは完全な顔が三つ、首から上に乗っているのだ。
それは、仏像の中にある、
「阿修羅増」
のごとくであり、その三つの顔にはそれぞれ喜怒哀楽の感情が司られていた。
三つの顔はまったく違った感情を持っているが、元々は一人の人格が形成されたものであり、一つの顔しか持たない人が、感情を表情で表す代わりに、それぞれの表情を最初から持っているのだ。
そうやって考えると、阿修羅面も納得がいく。人間のように、表情で感情を表すという方が、考え方によっては難しいことなのかも知れない。最初から感情ごとに顔を持っていれば、顔が脳と連動して、表情を変えるということをしなくてもいいからだ。
だが、ほとんどの動物は、一つの身体に一つの顔しか持っていない。考えてみれば、感情ごとに表情を変えるのは人間だけであり、そもそも感情など人間にしかないものだと思えば、人間以外の動物に顔が一つでも不思議はない。
人間だけが特別なのだ。
感情を持っているということも特殊なことだし、それを元にコミュニケーションが取れるというのも特殊なことだ。もっともそれは他の動物が、
――本能でのみ動いている――
という仮説を正しいとして考えたことであろう。
棚橋つかさは、
――人間の頭は一つしかない。だから感情を表情に出すと思っているけど、表情をうまく使いこなせない人はどうしているんだろう?
と考えるようになった。
阿修羅面や、左右で男女の神のように、同時に感情を表に出せればいいのだが、そうでない人は、感情が一つだということだろうか?
それも無理があるような気がした。
だったら、無理があるついでで、もう少し無茶な発想をしてもいいのではないかと考えた。
――もう一人の別人は、本人が知らない間に、勝手に表に出ているのではないか?
この発想を思い浮かべた時、さらにすぐ思いついたのは、
――これって、ジキルとハイドの発想ではないか?
と思うと、
――人間、皆似たり寄ったりの発想をするものなんだな――
と感じた。
時代も違えば、地域も違う。育った環境がまったく違っている二人がたまたま同じような発想をするということは、この発想も実は無理のない発想なのかも知れないとも感じるのだ。
そう思うと今度は、
――今、こうやって考えている自分って、本当にこの身体の主なんだろうか?
とも考えられた。
自分の意識をしていない時、もう一人の他人が表に出ているとすれば、その人はこの身体の主を自分だと思っているかも知れない。
――でも、自分の中にいるのが女性であれば、身体は男性なので、そこで何かおかしな矛盾を感じるはずだから、自分がこの身体の主だとは思わないだろう――
と思うのは、
――この身体の主は自分でしかない――
という思いを確信に近い形で持っているということの裏づけにはならないだろうか。
やはり、人間にとって身体も大切だが、それを司っているのは精神であるというのは、誰もが感じていることだろう。
「身体が一つなら、精神も一つ」
当たり前のように感じているが、そのことに疑問を抱くと、抱いた疑問が解決されることは決してないように思えてきた。
人間というのは、死ぬまでに一回は、必ず自分の中にもう一人、誰かが潜んでいることを意識するに違いない。
その人を意識するようになってから、今まで想像することができなかった、
「姉が今生きていれば、どんな顔をしているんだろう?」
という思いを、イメージとして浮かべられるようになった。
その顔は両親とは似ていない。両親に自分が似ていると思っている棚橋つかさにも、当然似ているという意識はなかった。
――どうして、こんなに両親や自分に似ていない顔をイメージしてしまったんだろう?
子供の頃は、姉と似ていないなどと考えたこともなかった。
もっとも子供の頃は自分の顔が嫌いで、鏡などほとんど見たことのなかった棚橋つかさだったので、目の前にいる姉とを比較してみようなどとも考えたことはなかった。
両親はいつも見ていたので、比較しようと思えばできたのだろうが、両親も姉もいつも見ているのに、なぜか三人が一緒にいるところをあまり見た記憶がなかった。
姉は姉の顔、そして両親は両親の顔と単独でそれぞれ注視していただけに、余計にその三つの顔をすり合わせることはできなかった。いわゆる、
「次元の相違」
とでも言えばいいのか、それが遠い距離なのか、ニアミスなのかも分からない。
ただ、一緒に見たことがなかったと感じているのは自分だけで、実際には同じ空間で見ていたのかも知れない。それぞれにシンクロしない何かが棚橋つかさの中であったのだろう。
それが何なのか想像にも値しなかった。そんな考えはすぐにでも消し去りたいと思うほど、自分の中で気持ち悪いものだったからだ。
姉が生きている頃は、一時期、露骨に姉をえこ贔屓している時期があった。今から思えば姉は病気だったので、それも仕方のないことだろう。両親の頭の中には姉のことでいっぱいだったはずだ。子供の棚橋つかさに理解できないのは当たり前だとしても、何となくではあるが、姉の病気を気遣っていることくらいは子供にも分かった。
分かっているからこそ、許せないこともある。
作品名:「つかさ」と「つばさ」 作家名:森本晃次