「つかさ」と「つばさ」
――異常な性欲から来るものではないか?
と思わせた。
棚橋つかさが、自分を異常性欲者だと感じるようになったのは、中学時代だった。一時期引きこもりにもなったのだが、引きこもりになる前というと、クラスに一人がいる、耳年魔の友達から、聞きたくもないのに授業中に席を寄せてきて、セックスの気持ちよさを耳元で囁いた。
その表情を直視できなかったが、それだけにその顔を想像すると、これ以上ないというほどの淫靡な表情になっていた。
口元は淫らに歪み、目は好奇の表情を裏付けているかのようで、歪んだ口元が今にも耳まで裂けてしまいそうなイメージに、なぜか道化師を思い浮かべた。
「道化師」
それは、奇抜な格好に化粧を施し、どこの誰だか分からないのをいいことに、おどけた態度で、ある時は人を喜ばせ、感覚をマヒさせる効果がある。しかし、まともに見てしまっては、これほど気持ちの悪いものはない。
道化師の恐ろしさは、その口から何も発しないことだ。だから、いくら彼の声を想像してもできるものではない。なぜなら、その顔面からは、その素顔を創造することはできないからだ。
そういう意味では何も口にしない人ほど怖いものはない。中学時代に淫靡な話をつかさに聞かせたやつには、怖さは感じないが、話を盛り上げるには十分な声と雰囲気だった。つかさは衝撃を受けたのだった。
そのイメージを感じたまま、自分の中にもう一人知らない人がいるのを感じると、その人にだけは誰も知らない自分を知られてしまっていることが怖かった。自分の中にいるのに自分ではないという矛盾した状況に、混乱を隠しえない棚橋つかさだった。
自分の中にいる誰かが誰だか分からない時期と、ひょっとすると姉かも知れないと思い始めてからの棚橋つかさは明らかに違った。姉が自分の中にいてくれると思うと恐怖は薄らいでくる。しかしその反面、異常性欲を持っているかも知れない自分を、自分の中にいる姉は容易に知ることができたのだと思うと、恥ずかしい思いでいっぱいだった。
しかし、姉はすでにこの世の人ではない。もし自分の中に姉がいるとしても、それを知っているのはこの自分だけである。それなのに恥ずかしいと思うのはどういう感覚なのだろうか? いくら姉がいたとしても、その範囲は自分の中でのことであり、しょせん表に出て行くことはない。だから、他の誰も知ることはできないのだ。
姉はそれを知ったとしても、話すことができるわけではない。何も言われることもないし、別に恥ずかしがることもないのだ。
――俺はいったい何に恥ずかしいと感じているんだろう?
思春期特有の感覚で、
「大人の人が聞くと顔を真っ赤にして、怒り出すような表現」
それを恥ずかしいことだと思うのだろうか。
思春期ともなると、少々のことでも恥ずかしいという感覚に陥る。思春期特有のニキビも顔面に広がっていて、汚らしいったらありもしない。
だが、大人が恥ずかしがる必要がどこにあるというのか、自分たちも思春期を通り越えてきたはずで、その時に恥ずかしいという感覚を植えつけられたのだろう。
「恥ずかしいというのは、言葉にするのもおこがましいようなことであり、誰もが不快な気持ちにさせられるもの」
という定義になるのだろう。
しかし、性交は人間、いや生き物にとって大切な生きているうえでの営みであり、種の保存という観点からも重要なことだ。
人間では人口問題、他の生物を含めると、生活環境のスパイラルとでもいうべきか、生き物が生きていくうえで、循環を繰り返す中で欠けてはいけないバランスがそこにはあるのだ。
「人に限らず、生物の生死というのは、何によって司られているんだろう?」
と考えたりもした。
神話の世界のように、神様がいて、彼らの中にある生殺与奪の権利のようなものが影響してきて、時には神様の勝手な心境で、人が簡単に殺されてしまったりする。
ギリシャ神話などに出てくる神々は、基本的には嫉妬深く、しかも自分たちによる創造物である人間が、自分たち神に近づくことを嫌い、天罰と称して、罰を与えるのである。そのいい例が、
「バベルの塔」
の話ではないだろうか?
さらに、人間が自分たちの思っていたのと違う成長をすることで、人類、いや、その時代の生物の一部を除いて、世界を滅ぼそうと考えた、
「ノアの箱舟」
の話もしかりであった。
神が人間を作ったと書かれた聖書も、結局はその人間が創造することに遡る。堂々巡りを繰り返すのは、しょせん創造された神は架空でしかないということであろうか。
以前、神々の興亡をテーマにしたアニメを見ていたことがあったが、その中に一人気になる神がいた。実際にそんな神が存在するのかどうなのかなど、棚橋つかさは知らなかったが、最初に見た時の感想は、
「わっ、気持ち悪い」
というものだった。
これは自分以外でも他の人のほとんどが気持ち悪いと感じるレベルのものであるが、彼のように見た瞬間、反射的に感じるほどではないに違いない。
その神というのは、顔面が半分に割れていた。その半分に割れた顔の右側は男性で、片方の左側は女性になっている。だから、右側から見れば男性で、左側から見れば女性になっていた。
しかも、その神の登場シーンで、正面からの画はあまりなく、ほとんどが左右のどちらかの画だった。
女性側から見た時の声は女性になっていて、男性側から見た時の声は男性になっている。数少ない正面からのカットの時は、男女の声が共鳴したように響いていたのだ。
子供心に、これほど気持ち悪いと思ったことはないと思ったほどだった。ホラー映画などで、妖怪や化け物のグロテスクな描写も、このアニメの神のような気持ち悪さを感じない。そもそものレベルの次元が違っているのだろう。
一番気持ち悪いと感じたのは、正面からのカットで、男女の声が篭ったように共鳴して聞こえてくるのが、嘔吐を催しそうなほどの気色悪さであった。
棚橋つかさがそのアニメを見ていたのが中学生の頃、姉への思いは消えることはなかったが、引きづった感情はある程度なくなっていた。
――もし、姉への思いを引きずっていた頃、こんなアニメを見た時、どう感じただろう?
きっと、見るのをやめていたに違いない。
しかし、中学生の頃は、気色悪いと思いながらも見ていた。
「好奇心が旺盛な時期」
というだけで片付けられない何かがあるとは思っていたが、それがどこから来ているのか分からなかった。
棚橋つかさが、
――自分の中にもう一人別の誰かがいる――
と、最初に感じたのはこの頃だった。
実際には、中学時代のどこかだという確信があったが、ピンポイントで確定できるほどの材料は持っていなかった。
自分の中にいる人が女性だと最初に感じたのはいつだっただろう?
最初に自分の中の別人を感じてから、少しは経っていたように思う。すぐではなかったと思ったのは、
――自分の中に誰か別人がいるなんて――
という疑いの時期があったのと、そのもう一人というのが、姉ではないかと考えるようになったからだ。
姉だと思うようになってからもすぐに、
――別人が女性であるーー
という思いに駆られるようになったわけではなかった。
作品名:「つかさ」と「つばさ」 作家名:森本晃次