「つかさ」と「つばさ」
ただ、緒方先生の高校時代に似た男の子の中に女の子がいることに気付いたのは、緒方先生だけだった。それはまわりの見る目の彼らに対しての意識の違いなのか、それとも棚橋つかさの方に、女性を感じさせるオーラのようなものが備わっているのか、どちらなのだろう?
緒方先生も、ほとんどのクラスメイトも棚橋つかさに扇という姉がいたことを知っている人はいない。棚橋扇のことを知っている生徒は、棚橋つかさと小学生の頃から一緒だった人だけなので、しかも現在も親交があるとなると、本当に限られた人になるだろう。
棚橋扇は、つかさが小学校三年生の時に亡くなった。学年では二個上だったので、小学生の頃に死んだことになる。
病気は不治の病だったようだ。
両親には半年前に告知されたようだが、両親も病名を知ってからというもの、それなりに覚悟はしていたのだろう。
「なるべくあの子のためになるようなことをしないと」
と両親はいつも話していたという。
棚橋つかさは、大人のそんな事情を知るわけもなく、もちろん姉に余命を悟らせるわけにもいかないので、相当苦しかったことだろう。それでも、
「扇のためだからと言って、つかさに辛い思いをさせるのは酷だよな」
と言って、つかさにも同じように愛情を注ぐようにしていたが、それにも限界はある。
「どうしてお母さんは、お姉ちゃんばかり贔屓するんだよ」
と言って、いじけたことがあった。
些細なことから姉を相手に意地を張ったのだが、それを見ていて母親が業を煮やしたのだろう。
「相手はおねえちゃんなのよ。遠慮しなさい」
と強めに言ってしまったのだ。
――しまった――
と、母親は瞬時に後悔したことだろう。その表情から焦りのようなものが見えていた。
つかさはその表情から、
――自分が優位なんだ――
と感じ取ったようだ。
さすがに勘が鋭い子である。だが、その勘の鋭さは目の前に見えていることに対してだけのことであり、その奥に隠された、いや、隠さなければいけないことまでは看破することはできなかったのだ。
中途半端な看破はつかさを疑心暗鬼にさせた。
――お母さんは、僕を嫌いなのかも知れない――
と思わせた。
それを両親は一番怖がっていたはずなのに、どうしてこんなことになったのか、姉のことだけで頭が一杯なのに、余計な心配をさせられたことは、自業自得のはずが、いつの間にかつかさに向けられていた。
これは、堂々巡りになってしまった。
「負のスパイラル」
とはこのことであろうか、特に相手が一人ならいざ知らず、姉弟という近親間でのことなので、厄介だった。
しかも、そのうち一人は、余命幾ばくかなのである。やりきれない気持ちになってしまうのも仕方がないが、その重いというのが負のスパイラルの原点だと考えると、逃げるわけにはいかなかった。
だが、真っ向から立ち向かったとしても、それは無駄でしかないことは分かっている。下手に正攻法を貫くことが得てして負のスパイラルを最短で繰り返させようとすることになるなど、なかなか思いつくことではない。
棚橋扇が亡くなった時、つかさはそばにいなかった。学校にいて、何も知らずに授業を受けていたのだが、両親もつかさを呼んでいいのか悩んでいたようだ。
「つかさは、人の死について、まだ何も感じることができる年ではない。もう少し大人になるまで、人の死に直面することは避けてやろう」
という話をしていた。
だが、つかさとしては、
「どうしてお父さんお母さんは、僕を呼んでくれなかったんだろう?」
と、口には出さなかったが、つかさは感じていた。
別に会ったからと言って、何を言っていいのか分かるわけもなく、ただ混乱してしまうだけだとは思うのだが、それでも会えなかったことを両親のせいにして、気持ちのはけ口にしていた。
両親が悪いわけではないと少し大人になれば分かることだったが、誰かのせいにしなければ、姉と会えなかったことの後悔を自分では整理しきれないでいた。
――姉に対しては、不満しかなかったはずなのに――
と思うと、
――もし会っていたら、文句を言ったかも知れない。言いたかったんだ――
と、自分に言い聞かせるように感じていた。
その頃からだっただろうか、それまで分からなかった姉の気持ちが何となくであるが分かってくるのを感じたのは……。
その感覚が棚橋つかさを勘のいい少年にしていったのかも知れない。
特に女性に対しては、何を考えているか分かる気がしていた。もちろん、女性全般に分かるわけではなく、特定の人の性格や考えていることが分かるような気がしていた。その共通性についても考えてみたが、心当たりはなかった。別に自分と同じような性格の相手を分かるというわけでもなく、姉を思わせるような女性のことが分かってくるというわけでもなかった。
ただそう思って次第に感じてきたのは、
――俺の中に誰か別の人がいるような気がする――
という思いだった。
二重人格の人はまわりに何人かいるようだが、それとも少し違っている。どちらかというと、自分が意識している間は、その人は裏に隠れてじっとしていて、ある瞬間、つかさの意識が飛んでしまい、その間にもう一人の誰かが自分の中から出てくるのだ。
そのもう一人の誰かが自分ではないことは分かっていた。
――もう一人の自分は別にいるんだ――
という意識があり、そうなると自分の中にはもう一人の自分と、もう一人の誰かと、そして今考えている本当の自分の三人がいることになる。
最初は、
「ジキル博士とハイド氏」
の話を思い浮かべたが、小説の中でのハイド氏は、明らかにもう一人の自分だった。
そういう意味では、ジキルとハイドの話の方が切実で、恐ろしい気がしてくる。なぜなら自分の中のもう一人の自分は、自分の知らない本当の悪魔の部分だからである。ただ、他の人も本当の自分を知らないだけで、本当の自分は悪魔なのかも知れない。
「知らぬが仏」
とは、まさにこのことであろう。
棚橋つかさは、自分の中にいる、
――三人目の誰か――
が姉ではないかと思うようになった。
絶えず誰かに見られているような気がして、ゾッとすることはあるのだが、恐怖に結びついているわけではない。気持ち悪くないといえばウソになるが、それ以上に安心感を与えてくれるという矛盾を孕んだ視線であった。
――包み込まれるような視線って、こんな感じなんだろうか?
身体がゾクゾクしてくるのを感じた。
ただ、そのゾクゾクは、くすぐったくもあり、心地よさもあった。何かに包まれる快感をそれまでに味わったことのなかったはずの棚橋つかさだったが、中学時代になってくると、
――懐かしいような気がする。本当に気持ちいい――
と、身体の奥から熱いものが噴出してくるような気がした。
中学生というと思春期であり、身体は大人の仲間入りをしていた。性に目覚める頃でもあり、この快感が性によるものであるということはウスウス感じていた。
だが、性を感じるということは恥ずかしいことだという意識が中学時代の棚橋つかさにはあった。しかも、性を感じさせる異性というのが、死んだとは言え、肉親である姉だというのは、
作品名:「つかさ」と「つばさ」 作家名:森本晃次