「つかさ」と「つばさ」
「どうしてなのかしら? 最初に見た時に感じたことと、次に見た時に感じた感覚が違ったからなのかも知れないわ。しかも、最初に見た時なんだけど、その絵を見てから数作品先にも同じように花を描いた作品があって、それを見た時、もう一度、さっきのその作品を見てみたいという衝動に駆られたんです。そしてもう一度戻って確認してみたんですが、その時に最初に見た時と違った印象を受けたんですよ」
もう一度前の作品に戻ってみるという感覚も、中江つかさならではなのかも知れないが、緒方先生には中江つかさを見ていると、
――彼女ならありえることなのかも知れないわ――
と感じた。
「そのように違ったの?」
「一口には言い難いんですが、言えることとすれば、明るい部分よりも影になっている部分が違っていたような気がするんです。いわゆるバランス的なところが違っていたように思うんですよね」
絵に大切なのは、バランスだと緒方先生も感じていた。配置的なバランスもあれば、色のバランスもある。その二つを凌駕したのが、今中江つかさの言った、
――影のバランスなのかも知れない――
と緒方先生は感じた。
色のバランスと配置のバランス、それは絵を描いてみたことがなければ感じることはないだろう・
また、そのことを感じるまでにどれほどの時間を感じるかということが絵画に対してのセンスであり、才能のようなものではないかと感じた。だが、目の前の被写体を忠実に描くのが絵画の基本だと思っていたのは間違いなく、目の前にないものを描いたり、省略したりすることは、芸術に対しての冒涜のようなものではないかとさえ思っていたほどだった。
絵を描いたことはあったが、描き続けることをしなかった理由は、
「私には才能がない」
と思ったことだ。
その理由として、
「色のバランスと配置のバランスについては理解できたが、自分が描こうとすると、まずは配置のバランスで挫折してしまう。つまりは、最初にどこから描き始めるかということが問題で、それを思うと、先に進まなくなってしまった」
それはまるで以前に聞いたことがある、
「将棋で一番隙のない布陣」
の話を思い出した。
「一番隙のない布陣というと、最初に並べた状態なんだ。一手指すごとにそこに隙が生まれる。だから最初の一手で勝負の行方が見えると言ってもいいかも知れない」
という話だった。
最初にどこに筆を落としていいか分からないということが一番のネックだ。ほとんどの人はそれを意識しないだろう。だが、それでもバランスよく仕上げることのできる人が、才能のある人だということになるのだろう。
中江つかさに、そのことが分かっているのだろうか?
「中江さんは、絵を描いたりするの?」
と聞くと、
「ええ、たまにですけどね」
という返事が返ってきた。
まだ彼女のヒヤシンスの絵を見る前だったが、最初にヒヤシンスを描いた彼女の絵を見た時、なぜかこの時のことを忘れていた。すぐに思い出すことができたのだが、一瞬だけでも、
――どうして忘れてしまったんだろう?
という思いがあったのは事実で、緒方先生に瞬間的な記憶が飛んでしまう状況が備わっていることを自覚したのは、その時が初めてだった。
別に記憶喪失というわけでもなく、物覚えが悪いというわけでもない。いきなり急に忘れてしまうことがあるというだけで、突発的なことだった。
その理由について考えたこともあったが、考えれば考えるほど堂々巡りを繰り返してしまいそうで、何度かのスパイラルの後、ハッとしたように意識を閉ざすことにしていた。
そうでもしないと、無駄な時間が過ぎていくだけで、しかも、スパイラルに深く入りこめば入りこむほど、一気に時間を消費してしまっているようだ。
――こういうのを、負のスパイラルっていうのかしら?
と緒方先生は感じていて、自分の中に今まで見えていないだけでいくつかの負のスパイラルがあることを自覚しないわけにはいかなかった。
負のスパイラルは誰にでもあることだろう。緒方先生だけではなく、目の前にいる中江つかさにもあるだろうし、ただ、それは自覚している人がどれほどいるかということや、自覚している人の中でも、どれほどの人がなるべく隠しておきたい感覚だと思っているかというのも重要なことではないかと感じていた。
棚橋つかさ
緒方先生は、自分が忘れっぽい性格だと思っていた時期があった。その一番の特徴が、人の顔を覚えられないことだった。だから、自分には営業は向かないと思っていたが、それでも教師にはなりたかった。教師になりたててで覚えなければいけないことがたくさんある中で、その中でも不安だったのが、生徒の顔と名前が一致するかということだった。
しかし、その心配は考えすぎであって、なるほど、最初はなかなか覚えられなかったが、ある時点を過ぎると、それまでほとんど誰も分からなかったのに、急にみんなの顔が分かってくるようになった。一つの歯車がうまく行くと、一気に繋がってくるものだと感じたのだ。それが一人の顔を認識できるようになったことだった。
その生徒は、残念ながら中江つかさではなかった。その生徒は男子生徒で、名前を棚橋つかさという。中江つかさと名前の部分が同じなのは偶然なのかも知れないが、同じ名前なのに片方は男子で、片方は女子というのは面白い。
棚橋つかさという生徒は、どちらかというと目立たない性格に見えた。しかし、実際に目立たないように見えるのは、彼が煮え切らない性格で、まわりをイライラさせるところがあるからだった。そのため、彼を意識した相手に対して、
「あんなやつのことを気にするのは時間の無駄だ」
と思わせた反動によるものではないかと緒方先生は感じるようになった。
「女の腐ったような性格」
とはよく言われたが、今では女性差別と言われかねない表現であろう。
だが、こんな表現は昭和の時代には普通に言われていた表現であり、緒方先生も親から似たような表現を聞かされたことがあった。それは緒方先生が小学生の頃で、近所に住んでいた男の子に、棚橋つばさと似たような性格で、自分一人では何もできないような行動力に乏しい人がいたのだ。
小学生であっても、
――それって差別用語なんじゃない――
と感じていた。
母親の前でそんなことを口にすれば、何を言われるか分かったものではないと思っていたので黙っていたが、母親の態度や言動を見ていると、昭和という時代が何となく分かってくるような気がする。
小学生の頃にいた、いわゆる、
「女の腐ったような性格」
の男の子ではあったが、彼は彼なりにいいところもあった。
大人というのは、悪いところばかりを見つけては、それを指摘して満足しているのではないかと思っていた。そんな大人に逆らえばバカを見るというもので、
――自分がそんな大人にさえならなければいいんだ――
と、自分に言い聞かせていた。
その男子生徒のいいところというのは、勘が鋭いところだった。口数は少なかったが、たまに開く口から発せられる言葉は、ドキッとさせられるものが多かった。他の誰も気づかなかったことを口にする彼を、
作品名:「つかさ」と「つばさ」 作家名:森本晃次