「つかさ」と「つばさ」
ザワザワという声が響く中、その群衆の中を覗き込んでみると、そこには一人の学生服を着た女の子が横たわっていた。顔は苦悶に歪んでいるようだが、その表情から素顔を想像することはかなり困難であった。
しかも彼女が着ている制服は、K高校の女生徒の制服だったのだが、すぐにはそれにも気付くことができなかった。
苦悶の表情を浮かべる彼女を見て、一瞬、
――見るんじゃなかった――
という後悔が、緒方先生を襲ったことを自覚はしているが、後になってそう感じたことは思い出せたのだが、それが後悔だったとは思えなかった。
それだけ本当に一瞬だったのだろう。
そしてその後悔があったからなのか、余計に顔を背けることができなくなった。
――顔を背けることができなくなったから、見るんじゃなかったって思うのが普通のはずなのに――
と思うことで、それが後悔ではないと感じたのだとすると、緒方先生の考えは結構屈折したものがあったのかも知れない。
――顔を背けることができなくなったのなら、腹を決めて直視するしかないんじゃないの――
と感じ、そのままじっとその様子を見ていた。
額からはわずかに汗を掻いているのだろうか、じわっと光っているのが見えた。だが、顔からは汗が滲んでいることはなく、よく見ていくと、最初に感じた顔色の悪さも気のせいか少しずつ血色がよくなっているように感じられた。
まわりからも、
「大丈夫じゃないかな? 顔色もよくなってきているようだし」
という声が聞こえた。
緒方先生が振り返った時、誰かが奥に向かって走っていくのが見えたので、きっと警備員か、美術館の関係者に事情を伝えに行ったのだと思った。
しばらくすると、白衣を着た女性が走ってきた。どうやら美術館に常設されている医務の人のようだ。
このあたりは美術館だけではなく、役所関係もあるので、そのすべてを総括している人なのかも知れない。
医者がやってきた時にはかなり彼女は回復をしているようで、その顔が分かるようになってきた。
倒れていて、横顔なのでハッキリと分からなかったが、見覚えのある顔であり、それが誰なのか想像はついているような気がした。
医者がやってきて、様子を見ながら、大丈夫だと判断したのか、彼女を抱き起こして、その顔を覗き込みながら、
「大丈夫? 分かるかしら?」
と、少々大きめの声で話しかけた。
美術館なので大きく響いて聞こえたのかも知れないが、実際にもハッキリとした口調だったので、それだけハッキリとした口調で言葉を吐くためには、ある程度の音量は必要だと思った。
「うーん」
初めて彼女は声を発した。
想像していたよりも重低音で、ハスキーな声だった。やはり美術館という場所であること、そして意識不明から戻ってきての第一声だということが大きく影響しているのであろう。
その声を聞いて緒方先生はハッキリとその人が誰なのか分かった。
「中江さん?」
と声に出すつもりはなかったが、声に出してしまったことにハッとしながらも、歴然とした表情を浮かべたまま、介護されている中江つかさを見ていた。
医者は別に驚いたような表情を見せなかったが、まわりの野次馬からの痛いような視線は感じた。この場所で野次馬の一人としてしか見えていなかったはずの緒方先生が、急病人の知り合いだということに驚いたのだろうか。
偶然ではあるが、それほどビックリしたような偶然ではないように思うのは、冷静になってから思い出したからだろうか。その時の視線の先を見ることのできなかった緒方先生には。その痛いほどの視線の原因が何だったのか、今となっては知る由もなかった。
その次に声を発したのは、医者だった。
「あなた、中江さんなの?」
と、自分に覗き込んでくる相手に対して、
「ええ」
と一言答えた中江つかさだった。
中江つかさは、仰向けになっているので、覗き込んでくる相手が、天井のライトの眩しさから逆光になっているので、どんな顔をした人なのか分からなかっただろう。
そんな相手に、よくすぐに答えを言えたものだと思ったが、その発想ができるほど、その時の緒方先生は冷静だったということなのかも知れない。
「中江さん」
と、緒方先生は再度声を掛けた。
中江つかさが緒方先生の方を向いて、
「先生」
と言ったことから、中江つかさには、そこにいるのが緒方先生であるということは分かっているようだ。
それが緒方先生が中江つかさを最初に感じた時だった。意識したのはヒヤシンスの絵を見た時であり、そのことを緒方先生は自分で意識できているのだろうか。
中江つかさはしばらく放心状態だったが、少しずつ顔色がよくなってくるのを感じるとそこから先は快方に向かうのは早かった。話ができるようになると、それまでの中江つかさとはイメージが違っているほどに饒舌になっていた。
「中江さんは、よくこの美術館に来られるんですか?」
と緒方先生が聞くと、
「よくというほどではないんですが、たまに来ますね」
「そうなんだ。私もね、いつもというほどではないんだけど、たまにね」
というと、
「たまに」
という言葉がキーワードになっているのか、よくよく話をしてみると、お互いに来ている日が同じで、鉢合わせにならなかったことの方が同じ日に来ていたということよりも偶然を感じていた。その感覚は緒方先生よりも、中江つかさの方に強くあったようだ。
「本当にこんな偶然があるんですね」
と中江つかさが言うと、
「ええ、同じ日に来るのが何度もあったなど、本当に偶然ですね」
という緒方先生に対して、
「私はそれよりも、よく同じ日に来ているのに、鉢合わせにならなかったなって思う方が強いですよ」
と言って、好奇の目を緒方先生に向けた。
「そう? そういう考えもあるわね」
と、わざとはぐらかしたような言い方になった緒方先生だが、実は内心、そんな奇抜な発想をしている中江つかさに対してドキッとしていた。
「私は、ここに気分転換に来ることが多いので、何かを目的に来るというわけではなく、来てみたいと思うと来るようにしているのよ」
という緒方先生に対して、
「私もそうかも知れないわ。でも私の場合は、見たい絵が常設展示場にあるので、他の絵はおまけのようなものなんです」
「見たい絵というのは?」
「花の絵なんですが、花の種類は分からないんです。美術館の人に聞いてみたですが、その時には、『その絵のモデルになった花が何の種類なのか、私たちにも分からないんです。作者の人もハッキリとは言わなかったそうなんですよ』って言われたんです」
「そんなことってあるのかしら? じゃあ、作者の人は目の前にある花を忠実に描いたわけではないということなのかしら?」
「そういうことなんでしょうね。でも、絵画って、別に目の前の被写体と忠実に描かなければいけないものなんでしょうか? 別に改ざんしているわけではないので、芸術作品としては、それもありなんじゃないかって思うんですよ」
「それはその通りね。でも、どうして中江さんはその絵に興味を持ったの?」
作品名:「つかさ」と「つばさ」 作家名:森本晃次