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「つかさ」と「つばさ」

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 目の前が少し暗くなり、まるで瞼の裏にクモの巣が生えたかのような毛細血管を感じ、
――私はこのまま倒れてしまうんだわ――
 と感じたかと思うと、ドサッという音が耳元で聞こえた。
 目の前は完全に真っ暗になったが、自分が倒れてしまったのを感じた。それまで何も感じなかった耳だけが、
「ゴォー」
 という音が忍び込んでくるのを感じた。
 さっきまでは何も感じなかったと思っていた耳だったが、実際には貝殻を耳に押し当てた時のような音がしていた。まわりのただ無駄に広い空間に気を取られていたので分からなかったが、倒れ込んで耳元で轟音が響いたことから気付かされたのだ。
「緒方さん、大丈夫?」
 と、遠くから声が聞こえたが、轟音に耳を塞がれて、ハッキリと聞こえない。
 その状態が自分の意識を失わせるものだということをその時の緒方先生には分かっていた。だから、倒れるということも最初から分かっていたのだし、その時の緒方先生には予知能力のようなものがあったのかも知れない。
 ただ、自分のことだから分かっただけだとも言える。倒れるなど初めてのことだったので、いろいろな思いが頭を巡ったことで、まるで予知能力が備わっているかのように思えたのだろう。
 その時、どれくらい意識を失っていたのだろう。自分では、
――夢を見たような気がする――
 と感じた。
 しかし、実際には十五分ほどのことのようで、引率の先生が心配そうに覗き込んでいた。
「よかったわ。気が付いたのね?」
「私、どうしたのかしら?」
 と分かってはいたが、聞いてみた。
 ひょっとすると勘違いだったのかも知れないからだ。
「急に倒れたのよ。呼吸困難を起こしているようだったけど、次第に落ち着いてきたので救急車を呼ぶまでもないと思ったの。でも、もう少し苦しそうだったら、迷わず救急車を呼んでいたわ」
 と先生は言った。
 十五分程度で意識を取り戻したのであれば、救急車を呼ぶまでもなかったのだろう。意識を取り戻した緒方先生は、意識を失う前にすっかり戻っていて、まるで夢から覚めた状態のようだった。
「すみませんでした」
 と言って謝ると、
「いいのよ。きっと軽い貧血のようなものかも知れないわね。ところで今までにも貧血で倒れたこととかあったの?」
 と聞かれて、
「いいえ、ありません」
 今まで確かに貧血で倒れたことはなかった。
 しかし、倒れた時に、自分が倒れるということを予知できたのは。ひょっとすると過去に同じような経験があった場合によくあることだろう。
 だが、彼女にはそんな経験はなかった。貧血はおろか、倒れるということもない。
――さっき見た蜘蛛の巣のような線は何だったんだろう?
 倒れる時は、毛細血管を咄嗟にイメージしていた。それはただの偶然だったのだろうか?
 緒方先生は、それからしばらく貧血で倒れることはなかったが、その次に貧血を起こしたのは、付き合っていた先生と、ホテルの一室のことであった。
 急に立ちくらみを起こした緒方先生は、そのままベッドで少しの間だけ呼吸困難に陥っていたが、すぐに楽になったようだ。
「ビックリしたよ。最初の苦しみ方を見ると、やばいんじゃないかって思ったけど、すぐに楽になってくれたから、俺もホッとしているよ」
 と、落ち着いたから言える言葉を、本当にホッとした様子で話していた。
 しかし、本人にはそこまで大変なことになっていたような意識はない。実際に意識がなかったのでそれは仕方のないことなのだろうが、目が覚めた時も、中途半端な睡眠による頭痛の時のような痛みはなく、頭に嫌な意識が残っていることもなかった。
 むしろどちらかというと、サッパリとしている方だった。目覚めは決してよくない緒方先生だったので、
――低血圧から貧血を催したのかも知れないわ――
 と直感したが、そのわりには貧血で倒れたという意識はあったのだが、倒れたことによっての余韻は、ほとんど残っていなかった。
 しかも貧血で倒れたのはその時が最後で、それ以降には起こっていない。だからこそ美術館に何度も足しげく通うことができるのであって、少しでもイメージが頭の中に残っていれば、同じ環境に身を置いた時点で、同じような状況を引き起こす可能性は十分にあっただろう。
 しかし、貧血を起こす直前のイメージは頭の中に残っていた。同じような状況に陥れば、少なからず、身体が何かしらの反応を示してもいいだろう。それがトラウマというもので、本能が勝手に反応してもいいことだった。それなのに反応を起こさないということは。それだけ彼女の中で引き起こすための意識をよみがえらせるだけの十分な記憶がないということだ。それは精神の記憶なのか、肉体で覚えている本能のような記憶なのかはさだかではないが、彼女の中にはなかったのだ。
 緒方先生も知らなかったが、中江つかさもよく美術館を利用していた。鉢合わせになることは一度もなかったが、実際には何度かニアミスをしたことがあった。それは偶然なのかどうかは分からなかったが、どちらかのリズムがすこしでもズレていれば、何度も鉢合わせをしていたことになるレベルである。
 いつも最初に美術館に行っているのは中江つかさの方だった。
 中江つかさは結構早く見て回る方で、いつも一人でやってきてが、遅くとも三十分以内に美術館から離れていた。普段でも似十分くらいだろうか。何をしにきているのか分からないくらいだった。
 それに比べて緒方先生はゆっくりと見ていた。普通でも一時間は見ているだろう。下手をすれば、二時間も出てこないこともある。だが、先生も何か気になるものがあるわけではない。作品一つ一つを見ながら、時々上の空になっていることもあった。作品の中に自分を投影している時もあったくらいで、それだけ作品にのめりこみやすいというべきであろうか。
 あれは、緒方先生が美術館に来るようになったのが定期的になっていた頃で、美術館の人にも顔を覚えられていて、受け付けの女性とも軽い会釈で挨拶をするくらいの仲になっていた。
 緒方先生はいつものように、一つ一つの作品を見上げながら、ゆっくりと絵の中に入りこんでいる自分を感じていた。
 まわりを気にすることもなく、絵だけに集中しながらカニ歩きをしていた。
 そんなところで、
「おい、どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
 という声が少し離れたところ、いわゆる自分が数十分後には到達しているであろう場所から聞こえた。
 最初は意識を得に集中させていたので、その声が幻か何かに思えたのだが、ハッと思ってその方向を見ていると、すでに野次馬が群衆を作っていて、まわりを取り囲んでいたので、何が起こったのか分からなかった。
 緒方先生はその様子が尋常でないことに気付き、自分も近づいてみた。その時の心境はただの野次馬根性であったことは否定できない。ただ、近くで異様な雰囲気になっているのであれば、その理由を確かめないと自分自身が気持ち悪いという思いに駆られただけであった。
 緒方先生はゆっくりとその群衆に近づいていく。
 その時の乾いた靴音が、美術館という無駄に広い空間の中で響いていたのだが、この音を緒方先生は嫌いではなかった。