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短編集65(過去作品)

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「油断など、今までしたことがなかったのに」
 それは、自分の中で後から感じたことだったが、本当にそうだったのだろうか。四方八方に神経を研ぎ澄ませていることなどできようはずもない。昭子にとって気を配るということは、自分以外のほかの人に対してのことだった。人に気を遣っていれば、自分のことがおろそかになるのは当たり前である。
「油断なんて言葉、私が使う言葉じゃないんだわ」
 それに気付いたのも、かなり後になってのことだった。
 後ろから迫ってくる人を恐ろしいと感じたのは、きっとその時が初めてだったはずなのに、それ以前にも同じようなことを感じていたような気がする。
 初めて行った場所なのに、以前にも行ったことがあるような気がするなどということを何度も耳にしたが、
「前世からの因縁なのかも知れないわ」
 と言っていた人がいたが、その言葉が、やけに印象に残っている。小学三年生で前世などということを理解していたとは思えないことから、それも後になって聞いた話であろう。それだけに、小学三年生の頃の記憶も、さらに以前だったように思えてくるのも無理のないことだと勝手に理解していた。
 襲ってくる連中の表情は、一瞬しか見ていないはずだ。恐ろしくて目を背けたような気がしたからだ。
 頭を抑えられた。
――このままでは殺される――
 咄嗟に感じたが、身体がすくんでしまってどうすることもできない。
 手足をバタつかせたはずだったが、相手に抵抗が分かったであろうか?
「必死になっている時というのは、その人も信じられないほどの力が出るものなのよ。いえ、出せると言った方がいいかも知れないわね」
 と言っていたのは、三歳年上の近所のおねえさんだった。
 このおねえさんは、いつも昭子にアドバイスをしてくれる。昭子がもっとも信頼を寄せる人で、大人よりも当てになるかも知れないと思っていた。
 元来、大人は信じられない。小学生の割りにテレビのニュースを見るのが好きだった昭子は、いつもテレビの報道番組を見ては、
――こんな大人になんてなりたくないわ――
 と思わずにはいられない。同じ子供なのに、おねえさんの方がしっかりしていた。同じ小学生とは思えないくらいだが、三歳違うだけで、こおまで違うものなのだろうかと感心してしまった。
 おねえさんの言葉で何度も感心させれたが、そのほとんどは、SFの世界観だった。時間や鏡、さらには超常現象まで、おねえさんが話すことには理解ができた。
「大人には理解できないわね」
 そう言って、いつも話し終わった後に照れ笑いを浮かべるが、それだけおねえさんが話し始めれば止まらない。我に返ってしまうと普通の小学生に戻るのだろう。
 そのギャップが、さらにおねえさんの魅力だった。
「おねえさんも普通の小学生なんだね」
 本心から出た言葉なのに、
「そうかしら?」
 照れ笑いを浮かべるおねえさんには、どこまで本気に聞こえているだろう。二人の会話はそれほどツーカーだったのだ。
 おねえさんは中学に入学すると、なかなかお話をすることはなくなった。ちょうど、プールでの事件の前後ではなかったか。おねえさんが中学に入学したから話すことがなくなったのか、それとも、この事件があったからおねえさんとお話することがなくなってしまったのかは、定かではない。
 だが、それだけ昭子にとって、センセーショナルな事件であったことには違いない。
 ショックではあった。苛められるなど今まで考えたこともなかった自分が、苛められたのだ。精神的に打撃を受けたのには違いない。
 しかし、怪我の功名というのはあるものだ。その事件があってから、水が怖くなくなった。それどころか、水泳に目覚めてしまって、先生がビックリするほど、めきめきと上達していった。
 小学校には水泳のクラブはない。強化することはできなかったが、噂は中学にも行っていたようだ。中学に入学する前に先生から、
「君が入学する予定になっている中学には私の後輩がいるんだ。彼は水泳部の顧問をしている。元々は水泳ではインターハイで優勝するほどの逸材だったんだが、その人に君のことを推薦しておいた。もし、中学で思い切り水泳で頑張りたいと思うのなら、彼を訪ねるといい」
 そう言って、小学校を送り出してくれた。
 最初は何が何でも水泳で頑張りたいと思っていたが、小学校を卒業する頃になると、そこまで考えないようになっていた。それでもせっかく小学校の先生からの誘いである。無下に断わるわけにもいかなかった。
 訪ねてみると、さすがに喜んでくれた。まるで、訊ねたたけですでに入部が確定したかのようだった。
「いえ、まだ入部するとは決めていません」
 といつ言い出そうか困っていたが、さすがに相手も疲れたのか、会話が止まったときを好機に話してみた。
 すると、その時の先生の狼狽は激しいものだった。
 てっきり叱られると覚悟したが、
「これは先生の勇み足だったね。ごめんね」
 と下手に出てきたのだ。
 これには昭子も面食らってしまった。
――これでは、断わった私が悪者になってしまう――
 昭子は入部を戸惑っていただけで、絶対に入部しないという強い気持ちはなかった。それだけに相手の態度には敏感で、そんな態度に出られると、今度は昭子が恐縮してしまった。
「あ、いえ」
 戸惑っていると、
「いや、いいんだ。せっかくのいいお話だったので、先生、柄にもなく浮き足立っちゃってね」
 照れ隠しに頭を掻いて見せた。実際に耳も赤みを帯びていたので、もはや演技でもないだろう。
 先生の言葉に触発されたのか、それほど意志が弱いのか、昭子は入部することに決めた。これといって、ハッキリとした目標があったわけではない。だが、入部の日に先輩の前で泳ぐと、途端に驚嘆の声が上がった。
 最初はどうしてなのか分からなかったが、どうやら、泳ぎの綺麗さに驚嘆していたようだ。
「あなたの泳ぎには無駄がないわ」
 そう言って、本人の意思を聞くまでもなく、昭子の種目は長距離に絞られた。
「泳ぎが綺麗だということは、それだけ無駄な体力を消耗することがないということだわ」
 確かにその通りである。納得した昭子は自らも長距離の選手としてこれからの自分が歩む道を決めていた。
 長距離を得意とする先輩が優しかったのも昭子にとっては幸運だった。嫌味な先輩がいれば、それだけ自分の足を引っ張られるからである。
 先輩とは部活の間だけではなく、プライベートでも仲がよかった。
「あの二人、怪しいわね」
 などという言葉も聞かれたが、二人には関係なかった。お互いに部活では切磋琢磨し、プライベートでは、どんな小さな悩みでも打ち明けられるそんな仲だったのだ。
「こんなこと、他の人には言えないものね」
 これが二人の間での合言葉のようになっていた。昭子は後輩だったが、まったくの無礼講である。先輩が後輩に助言をもらうことの自然な成り行きが二人の間の空気を新鮮なものとして育んでいったのだ。
 そのうちに先輩も卒業していく。
 先輩は、高校に入学すると、その実力が一気に開花した。昭子は誇らしく思えたが、一抹の寂しさも覚えたのだった。
作品名:短編集65(過去作品) 作家名:森本晃次