短編集65(過去作品)
それでもいつもよりもかなり遅い時間に感じられた。そういえば休みの日に一日中部屋にいて、夕食を表で摂ろうとその日初めて表に出る時はまだ夕陽が沈む前なのに、寂しい気分に陥ってしまうことが多かった。
何もせずに無駄な時間を過ごしてしまったことを悔いているのだ。そんな日はゆっくり歩くことにしている。いつもであれば、時間がもったいなく感じるので、無意識に早足になっているが、無駄な時間を過ごしたと思っている時は、
――どうせあくせく時間を過ごしても、後悔が残るだけだ――
と思うだけなので、それならば、
――ゆとりのある一日として終わりたい――
という気持ちを強く持つようにしている。
夕食に行く場所は決まっている。駅前の一膳飯屋。朝であれば喫茶店がいいのだが、無駄に使ってしまったと思う日には却って喫茶店の雰囲気は辛くなる。一膳飯屋が残っているところも珍しく、駅前商店街が変わっていく中で、唯一昔の名残を残してくれている店だった。
一膳飯屋に置いてある新聞とテレビを見ながら食事をしていると、俗世間を思い出させてくれるようだ。
大学時代、アルバイトをしている時に、そこの従業員につれてきてもらったのが最初だったが、とても新鮮な感じだった。大学生としてのイメージとはかけ離れていたからだ。
今の仕事も一膳飯屋とはかけ離れたところがある。自分から避けているといってもいいだろう。営業で表に出た時に昼食などで立ち寄るのは喫茶店と自分の中で決めているのだ。
こだわりと言ってもいいかも知れない。
例えば、小説を書き始める前の読むことだけが好きだった頃からのこだわりで、フィクションは好きなのだが、それはホラーやミステリー、SFなどのジャンルであって、歴史小説のような史実に関わることは、フィクションだと嫌だった。あくまでも史実に忠実なノンフィクションでなければ、自分の中で邪道だという位置づけをしていたほどだ。
きっと許せない何かは規則的なのだろうが、どこで繋がっているのかと聞かれると、答えにくいものだ。
普段いない空間に身を置いていると、今まではインパクトのある時間として、それなりに長く感じていたものだが、最近ではあっという間に時間が過ぎてしまっていることに気付く。
――慣れてきてしまっているのかな――
いい悪いは別にして、時間があっという間に過ぎてしまうのは寂しい気がする。しかも、一日の半分以上の時間を無駄に使ったと思っている時、特にそれを感じる。夕陽にしても、襲ってくる夜の帳にしても、あっという間に過ぎてしまっている時間に後悔を感じることから寂しさが倍増している。
その日は時間があっという間に過ぎたわけではなかった。少なくとも午前中には会社で仕事をしていたのだ。
――会社にいたのが、まるで昨日のことのようだ――
会社を出てから帰り着いて、
――そうだ、エレベーター――
そのことを思い出そうとすると、また頭がボーっとしてくるのを感じていた。食事をし終わると、胸の鼓動を感じた。何かの胸騒ぎのような感じだが、
――やっぱり今日は早く帰って寝てしまった方がいいかも知れない――
さっきまで寝ていたという意識がなくなっていたのだ。
エレベーターを待っていると、非常階段から黒い影が伸びていた。身体をくねらすように揺れた影はすぐに見えなくなったので、錯覚ではないかと感じた。
「うぅっ」
うめき声のようなものが聞こえたが、それも風が通る音だったと思ってしまった。何もかもが一瞬だったので、嫌な予感がしたが、なるべく階段の方を見ないようにしながらエレベーターに乗り込んだ。
あっという間に着いた四階は、何もなかったかのように静まり返っている。
部屋に入ると、さっきまで誰かがいたかのような暖かさを感じたが、あれから二時間資格は経っている。とっくに冷え切っていてもいいはずだった。
何もする気になれず布団にもぐりこんだ。あれだけ昼間寝ていたのに、布団に入れば眠れるもので、うとうとしてきたのを感じると、気持ちよくなって眠ってしまっていたようだ。
夜中に一度目が覚めた。夢を見ていたのを思い出したが、ドキドキしていることから、楽しい夢だったようだ。朝まで目が覚めなければ、起きてくるまで夢の余韻に浸れていたのではないかと思うと残念だ。トイレに起きただけで、すぐにまた眠ってしまった。
今度は夢を見ていないようだ。目覚めは決していいものではなかった。まだまだ眠り足りないという感覚でいっぱいだったからだ。
目が覚めたのは、表が騒がしかったからだ。
ガウンを羽織って表を見ると、パトライトが真っ赤に回っている。救急車も来ているようだ。尋常ではない。
「どうしたんですか?」
三階で様子を見ている人たちに聞いてみると、
「六階で人が血を流して倒れていたんです。ナイフか何かで刺されたみたいで、エレベーターの中に、血が滲んでいるのも見つかったみたいですよ」
「被害者は誰なんですか?」
「それが分からないんですよ。このマンションの住人ではないのではという話のようですよ」
不可解な事件だった。
「そういえば、数日前にこのマンションで飛び降り自殺未遂があったのご存じですか?」
「いえ、知りません」
「その時は女性だったんですが、その人が飛び降りた時もエレベーターに血がついていたらしいんですよ。飛び降り自殺とエレベーターの血はまったく関係ないはずなのに、偶然としては変だと思っていましたね」
さすがに主婦の人はいろいろな情報を持っている。
「自殺未遂した人はどうしたんです?」
「今も入院中ですね。意識は戻ったらしいんですが、記憶が一部欠落しているらしくて、しかも起き上がることはできないようですね。後遺症で、歩けるようになるまでかなり掛かるとのことですね」
「その人は何階の人だったんですか?」
「六階の人ですね。六階から落ちたわりには怪我が少ないので、もっと下の階から飛び降りたのでは? という話でしたよ。そう、四階くらいからかな?」
「その人の部屋は?」
「六○五ですね」
米田の部屋は六○三、「四」という数字はないので、隣の部屋の二階上ということになる。もし、飛び降り自殺があったとすれば分からないはずもないのに、どうして自分の耳に入らなかったのか不思議だった。
自殺の原因は、どうやら男性に裏切られたのが原因ということだ。男に金を貢いでいたようだが、金の切れ目が縁の切れ目、急に冷たくなった相手を最後の最後まで信じていて、どうにも精神的に耐えられなくなっての自殺だということだ。いまだにまだ精神的な苦痛は続いているということである。記憶喪失もそのあたりに原因があるのではないだろうか。
そういえば、大学時代、一人の女性が自殺する小説を書いたことがあった。あまりにもリアルな内容だということで、さすがに機関誌への掲載はならなかったが、後で読み返して自分でも怖くなった。
それからというもの、自分の想像が歯止めの利かない小説を書き始めるのを何とか抑制しようとして、想像を逸脱するような話を書くことをやめてしまった。
あれがホラー小説の最後の作品だった。
作品名:短編集65(過去作品) 作家名:森本晃次