短編集65(過去作品)
エレベーターを降りると正面から続いている部屋への通路が見えるが、普段よりも広く感じられた。
すぐに違和感の原因が分かった。
――表に余計なものがほとんどないからだ――
華を植えているプランター、小さな子供が遊ぶための三輪車や、おもちゃがいつもだったら奥の方にはあるはずなのに、それがまったく見当たらない。
少し歩いて前の方に歩み寄ると、少し強い風を感じて、思わず下を覗いてみた。
「うわっ、これは高い」
一階分しかないはずなのに、かなりの高さであった。ビックリして踵を返しエレベーターの横にある階を示す看板を見ると、そこには「6」という数字が書かれている。
「ここは六階?」
いや、確かになかなか着かないと思ってはいたが、降りる時に四階であることを確認したはずだった。見間違えたのだろうか?
再度エレベーターを呼び寄せ、四階へと向かう。呼び寄せる時のエレベーターは三階に止まっていた。呼び出しがない時は、必ず三階で待機するようになっているのだろう。
――そういえば――
二基あるエレベーターのうちの一基は確かに三階で止まっていたが、もう一基は六階にいたような気がする。偶然なのだろうか。
六階から呼び出した時のエレベーターは両方とも三階に待機していた。三階分を上がってくるに妥当なスピードでエレベーターは上昇してくる。六階に到着したことを示す「ピーン」という乾いた音が静かなフロアーにこだましている。
急いでエレベーターに乗り込み、三階を押した。
間違いではない。自分の部屋の四階を押すべきなのだろうが、
――本当に四階に到着できるのか――
という思いと、
――もう一度表に出て、表からマンションを見てみたい――
という思いが交錯していた。
最初は四階に辿りつけないという思いの方が強かったが、次第にもう一度表から見てみたくなった。少しずつではあるが、次第に精神的に落ち着いてきているのかも知れない。
三階まで今回はあっという間だった。扉の上の電光掲示も、次の階に移る時、スムーズに光の線を奏でている。
三階まで来て表に出ると、表は暑いくらいの陽気だった。汗が身体の芯から滲み出てくるのを感じる。額からも汗が滲んでいたが。こちらは風邪のための汗であることはわかっていた。
指が痺れてくるのを感じる。汗を掻いてきたということは風邪薬が効いてきた証拠である。風邪薬が効いてくると、手足が痺れてくることもある。それは仕事などに集中している時に多く、風邪薬による睡眠作用に負けないようにしなければいけないという無意識の反応であろう。
表に出て見上げたマンションは、思ったよりも大きく感じられた。考えてみれば普段からマンションの大きさなど意識したことはなかった。仕事から帰ってきても意識するのは正面玄関の扉の大きさくらいで、視線が上に向くことなどほとんどなかった。
いつも歩いている時、考えごとをしている。
――気がついたら自分の部屋にいた――
などということも珍しくなく、マンションの入り口を通ったことも、エレベーターに乗ったことも覚えていない。
記憶にあっても、それがいつのことだったかという意識も薄い。今日のことだったのか、昨日のことだったのか、それすら分からない。記憶力が悪いというのとは少し違っている。いつも同じ行動をしていれば、無意識に見たようなつもりになってしまうことはあるだろう。考えごとをしながらともなればなおさらだ。
表から見上げたマンション、最近も意識して見たような気がした。いつのことだったか思い出せるはずもなく、じっとマンションの四階部分と、六階部分を見ている。
このマンションは九階建てになっているので、六階部分は玄関から見るとちょうど中間部分、手を伸ばせば届きそうであるが、上から見た時は足も竦みそうだったのを思い出した。やはり、上から見るのと、下から見るのとでは意識が違う。上から見ていると、
――万が一転落してしまったら――
という恐怖が付きまとう。そのせいで、高所恐怖症のレッテルを小さい頃から貼られていた。
足の震えはどうしようもない。今から思えば、六階から下を覗いた時に感じた恐怖が、体調の悪さを触発したのかも知れない。寒気が汗に変わり、新陳代謝がよくなった代わりに、痺れや渇きになって現れるのではないだろうか。
今度は非常階段を使って部屋に戻った。階段は自分の足を使うものなので、ある意味安心できる。今まではずっとエレベーターを使っていたので、非常階段は初めてだった。思ったよりも薄暗く、足元から伸びる影が薄気味悪く感じられた。
四階まで来ると安心して部屋に入る。冷え切った部屋だったが、奥は日が差すので、そこまで行くと暖かさが戻ってくる。食事もままならず、シャワーを浴びるわけにも行かず、布団の中にもぐりこんだ。
冷たいのを我慢するのも最初だけ、布団が暖かくなり、身体を優しく包むようになってくると、一気に睡魔が襲ってくる。
そのまま気持ちよく眠ってしまっていたようだ。気がつけば表は暗くなっていて、思わず目覚まし時計を見た。
時計の針は六時を示していた。表の薄暗さからは、これが午前の六時なのか、午後の六時なのか分からなかった。目覚めの感じだけは朝の六時のようだった。
しかし冷静に考えれば、帰ってきたのは午後、朝まで眠り続けていたというのも考えにくい。ここは普通に午後六時だと見るのが妥当だろう。
果たしてその考えは当たっていた。枕元にあるリモコンでテレビをつけると、夕方のニュースワイドをやっていた。ちょうど天気予報を伝えていて、
「明日も西高東低の冬型の気圧配置が続くでしょう」
と女性キャスターがニコヤカに伝えていた。
――冬型のわりには暖かかったな――
風邪を引いていて寒気がするわりにはポカポカした陽気を感じていた。身体が辛いだけに、過剰に反応してしまうのを抑えようとする本能が働いたのかも知れない。それでも頭はなかなかスッキリとはしなかった。
ただ、この感覚は覚えのあるものだった。まるで夢のように感じられるのは、風邪を引いていて、頭がボーっとしていたからではないだろうか。
どれくらい寝ていたのだろう? 確か帰ってきたのが三時前だったはずだから、三時間は寝ていたことになる。中途半端ではあるが、それくらい寝ればいつもであればスッキリするはずだった。
体調はだいぶよくなっていた。寒気も引いていて、熱っぽさもない。しいていえば、少し喉の奥が痛い程度だろう。咳が出なくなったのもありがたい。
夕食を摂ろうと表に出た。今度は無意識にエレベーターを使ってしまい、ボタンを押した瞬間に、
「しまった」
と思わず声をあげてしまったのだが、後悔するには及ばなかった。身体が宙に浮いたかと思うと、足に引っかかるような圧力を感じ、開いた扉の向こうには、見慣れている正面玄関があった。
表はさすがに真っ暗だった。それでも川の向こうはネオンサインがついていて、駅前の賑やかさが伝わってきそうだった。
時計を見ると六時半近くになっている。仕事が終わって普通に帰ってきたとしても、まだここには辿り着いていない時間だ。
作品名:短編集65(過去作品) 作家名:森本晃次