短編集65(過去作品)
――自分が口説きたいんだ――
これが普通の願望であろう。だが、話の中心にもう一人の自分が現れると、会話をしていて楽しくなる。
――やはり、もう一人の自分の存在は自分を助けてくれる存在でもあるんだ――
と感じるようになっていた。
美咲とはしばらくこの店で一緒になるだけの仲だったが、そのうちに朝食後にデートするようになり、それが自然な流れになっていった。
一日があっという間に終わってしまい、日曜日にも一緒に時を過ごすようになっていった。
美咲の趣味はバイオリンということであった。クラシックを聴くのが好きな米田にとっても、美咲の趣味には造詣が深かった。小説を書いているといえば、
「作品をイメージした曲を作ってみたいわね」
と言ってくれた。学生時代には自分で曲を作ってみたりしていたようだ。さすがに会社に入ってからはそんな時間もなく、すっかりその時の気持ちを忘れてしまっていたという。
「創作意欲を思い出すのって楽しいわ」
それは米田にとっても同じことだった。お互いに趣味も合って、一緒にいる時間があっという間で、それが実に自然な関係。
――これが女性との付き合いなんだ――
米田はそう感じた。
すぐに結婚を意識したわけではないが、頭の片隅に絶えずあった。結婚するに支障はないだろうと思いながらの交際で、美咲の方もきっと同じだったに違いない。
米田が三十歳に近づいた時、付き合いも三年近くになっていた。
「近い将来、結婚を考えているんだ」
プロポーズに近い言い方だった。
「ええ、考えておきますわ」
お互いに気持ちは同じ、それ以上の言葉はいらない。
会社の寮にもいつまでもいられない。それで探したマンションだったのだが、見つけたのが土手に建っているマンションだったのだ。
見た目は綺麗なマンションである。内装もそれほど古くなく、家賃も手頃だった。美咲にはまだ見せていなかったが、いずれマンションに連れてくるつもりだった。
心配している騒音も感じられない。壁も頑丈にできているようだし、マンションのまわりに騒音を起こすようなものは何もない。
マンションに住むようになってから一ヶ月が過ぎるまでは、毎日が会社と家の往復か、休みの日は朝から出かけて、美咲とデートする日が続いていたので、ほとんど自分の部屋にいることがなかった。寝に帰っているというのが本音である。
入居して一ヶ月以上が経ったある休日。ちょうどその日は美咲に用事があるということで、デートはキャンセルになってしまった。午前中だけ会社に用があったので、出社したあと、部屋に帰った。
ただ、その日は体調が悪く、昼食を摂ったあとに、風邪薬を飲んだ。
普段であれば睡眠効果のある風邪薬を昼間飲むことはなかったが、その日は帰るだけだったので、飲むことにした。
常備薬の類なので、そこまで強い風邪薬ではなかったが、しばらくすると、指の痺れを感じてきた。
会社から家までは約四十分の距離だが、電車に乗っているのは十五分ほど、それ以外は徒歩だった。
駅からマンションまではそれほど遠くはないと思っていたが、歩くと十分以上は掛かる。朝の慌ただしい出勤時間だからこそ、それほど煩わしく感じないのだ。
だが、その日は天気もよく、風一つない快晴だった。
木枯らしが吹く時期であった。朝は放射冷却の影響でかなり寒かったが、昼は打って変わって穏やかである。
朝との気温の違いで風邪を引いたのかも知れない。しかも今朝は土曜日、普段の通勤と違い、道はガランとしていた。精神的にも気が緩んでいたのかも知れない。
風は少し強かった。普段と違って人が少ないと寒さも余計に身に沁みる。そんな状態が悪影響を及ぼした。
仕事が終わってホッとした心境で会社を出ると、ポカポカ陽気、身体のだるさは一気に加速した。
昼食もどうしようか悩んだ。ハッキリ言って、食欲はあるのだが、食べると気持ち悪くなってしまいそうな気がしたからだ。風邪を引いた時の典型的な兆候であった。
――風邪薬を飲むには何かを食べないと――
軽くピラフを頼んで食べた。薬は最初の常備薬から取っておいたので、買う必要もなかった。
自己暗示に掛かりやすい米田は、薬を飲んでゆっくりしていると、少しずつ体調がよくなってきているかのように感じていた。
表に出る頃には、寒気は少し引いていた。
米田の部屋は四階にある。
ここのマンションは不思議な構造をしている。土手に建っているという立地条件のせいでそうなっているのだが、山の麓などに建てられているマンションは、これと同じ構造になっているところが多いのかも知れない。
実際にこの街も周囲を山に囲まれた盆地になっている。中小企業がいくつかはあるが、基本的には住宅街である。平地にはマンションが立ち並び、山の中腹あたりには、高級住宅街が並んでいる。
狭い街であるが、人口は密集している。平地にマンションが溢れてくると、今度は山の麓に建て始めた。
土地が安いというのもあるようだ。ただ、その分建て方に工夫がいるため、どちらがいいのか分からない。当然、平地よりも頑強にしておく必要があるだろう。
米田の住んでいるマンションの前を流れる川は面白い構造になっている。いわゆる「天井川」と呼ばれるもので、山から流れてくる川が傾斜になっているため、交差して走っている鉄道は、川の下を流れることになる。鉄道が川の下にトンネルを作っているという不思議な構造である。
米田の街は、そういう不思議な構造が自然に存在している。最初、米田も不思議だったが、慣れてみるとあまり気にならない。
米田のマンションの入り口は川の土手側にある。土手は結構な急勾配になっているので、入り口は三階ということになる。
一階、二階にも部屋はあり、さすがに一番下の階は駐車場も兼用しているため、部屋の数は圧倒的に少ない。よく見ると管理人室と、あと二つくらいだ。そこも、住人が入っているようには思えない。管理人が管理の目的で使っているのかも知れない。
階が上になるほど、部屋は豪華になっていく。三階までは、ほとんどが二LDKの部屋で、四階が三LDKと二LDKが半々である。
四階のほとんどは新婚か独り者で占められているが、米田の部屋も四階であった。
米田は、その日三階の正面玄関からエレベーターに乗った。たまに土手の下の方から帰ってきた時は一階から乗るのだが、いつも四階まで上ってくるのにかなりの時間が要しているように感じていた。やはり三階から一つのフロアだけ上るだけの方が圧倒的に短いのだ。
その日、エレベーターに乗ると、なかなか到着しなかった。
いつもであれば、上昇する時に感じる足への圧力を感じたかと思うと、すぐに到着する時の身体が宙に浮く感覚を覚えるはずなのに、その日は、足に感じた圧力がしばらく続いた。
「あれ? 押す階を間違えたかな?」
と感じて、扉の上の電光掲示板を見たが、どこの階にも光がついていない。
じっと見ていると、四階にランプが付き、身体が中に浮く感覚があると、「ピーン」という音とともに、エレベーターが開いた。
到着して表に出ると、いつもと雰囲気が違っていた。
――こんなに暗かったかな――
作品名:短編集65(過去作品) 作家名:森本晃次